●読み下し
廿四日 伊予守語りて云く、去る廿二日明法博士に御服日数を問はる(宮の御服なり、)。
天子、日を以て月に易ふる文を勘申す。廳の仰せに依り御服具を儲く。
土高坏の上に折櫃を居す。その中麻布御帯一筋、(上巻紙、)鈍色御衣(布鰭袖無し、)、
上皇御装束を着す(但し布衣・御衣を着せしめず、)。上北面方に御屏風を立て、
その前に小筵半帖等を敷く(已上掃部寮召す、)。其の前に件の高坏を居す。
光平の勘文に任せ丁方に向き着御す。今日また廿二日の如く着御す。乃ち脱御す。
例の御装束を着し件の御座に御す。光平御装束を給り前に置く。次ひで御贖物を供す
(長実陪膳、家保役(供)、束帯を被る、)。御禊了りて光平服・御衣を相具し、
河原に出で切り流すと云々、今日荷前使有りと云々、
カテゴリー: 長秋記
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『長秋記』元永二年十二月二十四日条 読み下し
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『長秋記』元永二年十二月八日条 語釈
・露顕:古代の聟執婚における結婚の披露宴。古くは男が女のもとに通いだして第三夜に行うのが普通であったが、院政期ごろから第一夜に行うのが一般的になった。男が連続して三夜女のもとに通うと、結婚が成立したものとして男女が三日餠を共に食して祝い、男は女の家の聟になったことを公表し、女の両親や家族が男に対面して聟として扱うことを承認し、親族など縁故の人を招いて披露の宴を設ける。
・吉上:六衛府の下役で、宮門・禁中を守る役の者。
・左衛門尉国能:藤原国能。詳細は不明だが@石山寺縁起に天治の比参議真夏卿の後胤に正五位下式部少輔藤原国能といふ人あり。」という記述があるほか、詩序集に記載あり。
・星歌:神楽歌の曲名。宮廷御神楽の「神楽次第」の歌は、(一)庭燎、(二)採物、(三)前張、(四)星・雑歌から成る。このうち、夜明けの神楽が「星(歌)」である。庭火も字が異なるだけでこの歌の一つと考えられる。
・月入:月の入りの頃の時刻。この元永二年十二月八日は、新暦では翌年一月十日であり、その日の「月入」の時刻は午後五時四十分である。
・御仏名:懺悔して仏名を唱え滅罪のためにする仏事である。三千仏名を礼拝するから仏名懺悔ともいう。わが国では毎年十二月中に一定の日を期して仏名を礼拝する行事を仏名会という。中国では古く東晋の時代から行われ、わが国では宝亀五年(七七四)十二月に方広悔過を宮中に行なったのが初めで、淳和天皇の弘仁十四年(八二三)十二月、大僧都長恵・勤操・空海らを請し清涼殿にて大通方広の法を行じ終夜に至った。その後年中行事として営まれたが建久のころに毎年十二月十九日より同二十五日に至る間のただ一日だけと定められた。その後建武年中(一三三四―三八)には一夜のみ行われたのが、永和のころより宮中では行われなくなった。世にこの仏名を唱礼して懺悔滅罪を祈る行事をお仏名会と呼んで平安時代は諸寺に行われ、薬師寺・東寺・四天王寺などでは過現未の三千仏名が歳暮にかけて行われたものである。これは『賢劫仏名経』『観薬王薬上二菩薩経』などの所説に基づいたものである。
・藤原宗輔:平安時代後期の公卿。権大納言藤原宗俊の三男。母は左大臣源俊房の女。没年から逆算すると、承暦元年(一〇七七)の誕生となる。寛治元年従五位下に叙され、近衛少将・同中将を経て蔵人頭に補され、保安三年参議に昇った。以後諸官を歴任して、保元元年右大臣に進み、ついに従一位太政大臣に至ったが、永暦元年上表して官を辞し、応保二年(一一六二)正月二十七日出家、同三十日、八十六歳の天寿を全うした。蜂を飼って愛玩したので、蜂飼大臣とあだ名された(『十訓抄』)。
・人長:にんじょう。神楽執行の宰領役。「ひとのおさ」ともいう。宮廷の御神楽では近衛将監、諸社の神楽では神祇官が勤める。 -
『長秋記』元永二年十二月八日条 現代語訳
●現代語訳
八日(内侍所御神楽)、権僧正の檀所に向かった。中宮権亮實能がやってきて言う事には、今夜は召人なので、沐浴の為に来たとの事だ。私もまた召人だったので、これを聞いて共に沐浴した。その後伊予守(藤原長実)の宿所に向かって、細弓・鞆絃袋を送った。(伊予守が)聟執の間にこれらを入れましょう、と言った。今夜、甲斐守(藤長輔)が参河守有賢朝臣の家に立ち寄った。今夜露顕であるという。参内して蔵人らに、「大将より示された所である。右近の陣の吉上等が訴えを申し上げている。近日、蔵人が吉上を呼び宿所を守護させている。また昼夜問わず私用に駆使している。まるで乱罸の様に陪膳にも催促させているという。これは誰がやっている事なのか。先例はあるが、今回の事に沿うものではない。沿う先例が無いならば早く停止されなければなない。一旦お伝え申し上げて(使役した事を)認めなければ、その時(院に)奏聞するのが良いだろう」と問い伝えた。蔵人盛行が言う事には、「この事は左衛門尉国能がやった事です。主上は全てお聞きになっています。今となってはこのような事には出仕しないでしょう」、との事だった。暫くして退出した。私は御剣に控えた。宗輔朝臣が御裾を取り、南殿及び軒廊春興宜陽殿代等を経て、内侍所に入御した(長橋を構え筵道を敷いていた、)。最初に屏風の中で御拝を行った。次いで南面御座に着御された。御拝の間南面御座に御剣を置いて退出した。頭中将が勅命を伝えて言う事には、「庭火本歌に奉仕せよ」、との事だった。形式通りに奉仕する事を申し上げた。伊通朝臣が和琴、成通朝臣が末歌、殿上人が着座した(西上北面、)召人が着座した。殿上人は六人伊通朝臣、忠宗朝臣、実能朝臣、成通朝臣、季成、そして私であった。地下元祐、清仲、忠光、定元、時貞、業兼が着座した(西本、東末、)。人長は末方に控えていた(列座である)。近衛府召人は暫く着座しなかった。この座は四列であった(本方・末方それぞれ二列か)。一献(宗輔、経忠)、二献(顕重、貞信)、三献(某)があった。続いて庭火があった。(本歌は私、末歌は成通、琴は伊通、笛は清仲、篳篥は忠光だった)続けて近衛召人が着座した。本(歌)は近方(拍子、)秦兼信と兼行、末歌は時光(拍子、)清原遠兼、秦公方、物を取り終えて勧盃した。才男を呼び、陪従が散楽を行った。元輔・清仲は㝡であった。事が終わって宗輔朝臣が星歌に奉仕するよう仰せになった。なのでそれ(星歌)を詠唱した。今夜人長が命によって本方に着座するはずだったが、風気がひどいために末方に座した。伊通朝臣は神楽の間に兼業を呼んで座上に座し、琴を弾かなかった。琴が終わり退出した。月入の頃に帰宅した。 -
『長秋記』元永二年十二月八日条 読み下し
●読み下し
八日(内侍所御神楽)、権僧正檀所に向かふ。中宮権亮實能参会して云く、今夜召人たるに依り、沐浴の為来る所なり。下官又召人なり。この旨を聞き、相共に沐浴す。次ひで伊予守の宿所に向かひ、細弓・鞆絃袋を送る。聟執の間件の物等入れるべしと云々。
今夜、甲斐守参河守有賢朝臣の家を過る。今夜露顕と云々。参内し蔵人等に問ひて云く、大将の御許より示される所なり。右近陣・吉上等訴え申す事有り。近日蔵人吉上を召し宿所を守護せしむ。又昼夜私便を行はしむ。陪膳を催さしむ、羇時乱罰に及ぶが如しと云々。件の事誰人為す所か。先例有るもこの限りに非ず。例に非ずんば早停止せらるべきなり。一旦觸れ申し承引無くんば、その時奏聞すべし、てへり。蔵人盛行に云く、件の事左衛門尉国能為す所なり。主上皆聞し食す所なり。今に於いては然る如くの事に候ぜざるか。やや久しくして出で行く。下官御剣に候ず。宗輔朝臣御裾を取り、南殿及び軒廊春興宜陽殿代等を経て、内侍所に入御す(長橋を構え筵道を敷く、)。先づ屏風中に於ひて御拝、次ひで南面御座に着御す。御拝の間南面御座に御剣を置き退下す。頭中将勅を伝えて云く、庭火本歌に奉仕すべし、てへり。形の如く奉仕すべきの状を申す。伊通朝臣和琴、成通朝臣末歌、殿上人着座す(西上北面、)召人着座す。殿上人は六人、伊通朝臣、忠宗朝臣、実能朝臣、成通朝臣、季成、下官等なり。地下元祐、清仲、忠光、定元、時貞、業兼着座す(西本、東末、)人長末方に在り。(列座、)近衛召人暫く着座せず。件の座四行なり(本末各二行歟、)。一献(宗輔、経忠、)、二献(顕重、貞信、)、三献(某、)、次ひで庭火、(本歌下官、末歌成通、琴伊通、笛清仲、篳篥忠光、)次ひで近衛召人着座す。本近方(拍子、)、秦兼信、同じく兼行、末時光(拍子、)、清原遠兼、秦公方、物取り了り勧盃す。才男を召し、陪従散楽す。元輔清仲㝡なり。事了り宗輔朝臣星歌に奉仕すべきの由仰す。仍って唱え了んぬ。今夜人長命に依り本方に着す。而るに風気甚だしきに依り末方に居す。伊通朝臣神楽の間業兼を召し座上に居し琴を弾かず。琴了り退御す。月入に帰家す。 -
『長秋記』元永二年十二月十日条 語釈
●語釈
・会稽:もとは中国の地名。 敗戦の恥辱。中国春秋時代に越王勾践が呉王夫差のために破られて会稽山に囲まれ、捕えられて恥辱を受けた後に夫差を破って、その恥辱をすすいだ故事が転じて、復讐を指す。 -
『長秋記』元永二年十二月十日条 現代語訳
●現代語訳
十日 参院した。行幸定があった。与奪は新大納言仲実、執筆は治部卿能俊、参仕の上達部は右衛門督顕通、藤大納言宗忠、別當忠教、新中納言実隆、宰相中将信通らであった。事が終わり、それぞれ連れ立って土御門殿に参上した。御仏名の事があった。新宰相中将雅定が参加した。御導師は湛秀、寛厳、勝仁。事が終わって名謁した。所衆・武者所は去年から夜に?御仏名会に参加しているそうだ。事が始まらない内に、武者らが所衆の者達を打擲したので、御仏名会が終わったあと所衆らは復讐しようと待っていたが、武者らを恐れてすぐには参入しなかった。所衆は分散した後数刻経ってから参入した。 -
『長秋記』元永二年十二月十日条 読み下し
●読み下し
十日 参院す。行幸定め有り。与奪新大納言仲実、執筆治部卿能俊、参仕の上達部
右衛門督顕通、藤大納言宗忠、別當忠教、新中納言実隆、宰相中将信通等なり。
事了り相率ゐて土御門に参る。御仏名の事有り。新宰相中将雅定参加す。御導師湛秀、
寛厳、勝仁、事了り名謁す。所衆・武者所去年より御仏名夜□等の事に有りと云々。
事未だ始まらざる前、武者等所衆徒を打たば、事了りて後所衆等会稽の為相待つと雖も、武者所に怖れを成し参入せず。所衆分散の後数刻を経て参入す。