●語釈 特記無ければ出典は全て『角川古語大辞典』。
・案:つくえ。物を載せる台
・襪:したぐつ。沓の内側にはき、足を覆うもの。今の足袋の股のないものに似る。
・坤:南西。
・寳幢:ほうどう宝珠で飾った華麗な法幢。また、法幢の美称。
・上首:じょうしゅ。ある一段の中で上位、または最上位の者。
・纐纈:漢語。染色法の一。絞り染め。「いたじめ」の絞り。模様を彫った薄板二枚にはさんで染める。「かうけつ」とも。
・鐃鉢:にょうはつ。仏家・寺院で用いる二種の打楽器、鐃と。つねに組み合わせて用いられたところから併称される。のちには、を特にさしていう。
・尊勝陀羅尼:陀羅尼の一。帝釈天が、善住天子の七度畜生道に落ちるべき業因を持つのを哀れみ、祇園精舎に詣でて仏に救済を乞うたので、仏がこの陀羅尼を説いたという(仏頂尊勝陀羅尼経)。受けなければならない鬼神などの害悪を免れる効験を持ち、これを唱えれば、悪を清め、長寿快楽を保ち、極楽往生ができるとして、盛んに読誦された。八十七句より成り、光明真言・大日如来五字真言(阿毘羅吽欠)と一具とされる。
・東塔:三昧堂の東隣にあり、壇上伽藍の東端にあたる。大治二年(一一二七)白河法皇の御願として、醍醐寺三宝さんぽう院(現京都市伏見区)の勝覚が創建した。「長秋記」によれば大治二年一一月四日、白河・鳥羽両上皇が高野山に参詣し、「渡御東御塔(中略)、件御塔、長吏権僧正、本院御祈所被造立也、九輪鉄以尊勝不動尊降三世安置其中」とあり、両院そろって臨幸した。「金剛峯寺巡礼日記」ほかによれば、大治二年一一月、法界定印の上に鈴をのせた白河法皇等身の金色尊勝仏と不動・降三世を安置する高さ七丈、三間四面の塔とあり、勝覚を導師に検校良禅を呪願とし、二〇口を西塔、一〇口を東塔供養の色衆として落慶供養が執り行われた。(『日本歴史地名体系』)
・九輪:仏語。五重塔などの頂上の、露盤の上の請花と水煙との間に位置する九つの輪。空輪、相輪ともいう。原型は古代インドに求められる。
・降三世明王:仏語。五大明王、または八大明王の一つ。東方に配される。阿閦如来の化身。貪瞋痴の三毒と煩悩、所知の二つの障りを降伏し断ずるもの。その形像には、八臂像、四臂像、二臂像があるが、多くは八臂像で、これに三面と四面とがある。足下に大自在天とその妃である烏摩を踏みつけ、剣や杵を手に持つ。功能としては、調伏、勝軍、除病、敬愛などがあげられている。降三世。
・下輿:さげごし。轅を手で腰のあたりに持ち上げて運ぶ輿。手輿たごし。
・持金剛衆:法会において衲衣を着、金剛杵を持ち大阿闍梨に随う役僧。衲衆。
・右遶:うにょう。仏語。敬礼法の一つで、尊者の傍を右回りに回ること。転じて、仏像を安置した須彌壇や堂塔の周囲を回る作法をもいう。三遍回ることを右繞三匝という。
・行道:仏語。僧尼が行列して経を読みながら仏像や仏殿の周囲をめぐること。また、その儀式。
・階高:建築物の階の高さ。床面からすぐ上の階の床の上面までの高さ。
・屈請:丁重に人を招くこと。特に、法会などのために僧侶などを招くこと。
【人名】
・勝覚:平安時代の真言宗の僧。三宝院権僧正ともいう。東寺長者、広隆寺別当。康平元年(一〇五八)生まれる。左大臣源俊房の子。母は陸奥守藤原朝元の女。醍醐寺座主定賢の弟子。義範・範俊の灌頂の資。応徳三年(一〇八六)六月、三十歳で醍醐寺座主となる。永長元年(一〇九六)八月、白河上皇落飾の戒師を勤め剃手の法眼と称される。長治元年(一一〇四)東大寺別当。永久三年(一一一五)醍醐寺三宝院を創建し清滝宮を醍醐寺の鎮守とする。天治元年(一一二四)東寺長者、同二年兼法務、寺務。同年東大寺別当復任。大治二年(一一二七)白河・鳥羽両上皇の高野御幸に供奉し大塔慶讃導師を勤める。待賢門院御座御祈の賞として天治二年権僧正となる。祈雨法などの効験で知られる。大治四年四月一日没。七二歳。(『国史』)
・藤原家成:嘉承二年生まれ。藤原家保の3男。母は藤原隆宗の娘。讃岐、播磨などの国守を歴任。保延三年(一一三七)参議、のち正二位、中納言。中御門中納言とよばれる。鳥羽院政下で従妹の美福門院と手をむすび、「院第一の寵人」といわれるほどの権勢をふるった。藤原顕輔の甥にあたり、歌道の六条家をささえたひとり。仁平四年五月二九日死去。四八歳。
・巨勢金丘(岡):平安前期の画家。巨勢派の祖。神泉苑の監で、従五位下采女正になったという。元慶四年(八八〇)、宮中に先聖先師九哲像の壁画を描き、また、藤原基経の五十賀の屏風を描くなど、当時の画壇の第一人者として活躍。唐絵を日本化し「新様」と呼ばれる新しい様式をうみだしたが、その作品は伝わらない。生没年未詳。(『日国』)
カテゴリー: 長秋記
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『長秋記』大治二年十一月四日条 語釈
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『長秋記』大治二年十一月四日条 現代語訳②
次に(両院は)東の御塔に渡御した。〈本院(=白河院)は御輿、新院(=鳥羽院)は徒歩であった。〉この御塔は長吏権僧正(=勝覚)によって、本院の御祈所として造立された。(未設置の)九輪の鐵や尊勝不動尊・降三世明王を其の中に安置した。西庇の南の端を御所とした。其の東の簾の外に法親王が控えておられた。導師権僧正は輿を下りた、散衆の山籠は十人で幕の外に並んだ。しかし進み出はしなかった。(藤原)顕能が事情を尋ねたところ、二人の法螺吹のうち一人がまだ来ていなかった。そのため(彼を)待っていたそうだ。顕能はそこで(他の散衆を)連れてくるように命じた。そこで別に散衆五人が参上し、仏前の東側に並んだ。持金剛衆五人は右回りに一周した。(顕能は、)「人々は三周しなければいけない事を知らないのだろうか。皆で行道すべだ」と言った。しかし僧等は故実を知っていたため、其の命令に従わなかった。
僧正が使を通じて私に、「御影堂において、両院は贈物を進上すると理解している。しかし御影堂では礼拝されていない。そのためこの度はどこに供えるのが良いであろうか。」と聞いてきた。(それに対し私は、)「この御塔で進上されるのが良いでしょう。(この塔は院)自ら造立された塔ですので、ここで祈りなさるのが良いでしょう。」と答えた。散花の際、堂童子は(藤原)経隆・(藤原)経雅・丹波守(藤原)家成らが務めた。件の両塔は御願文があるので、(院自ら)御願の趣旨は仰らなかった。導師の権僧正は以前(院に)、「ご自身で御塔を造立されましたので、御願を供えるのが良いでしょう。そこで布施を渡して供養しましょう。しかし自ら供養するのはとても憚りのあることでございます。なので御導師は他の人が奉仕すべきです。」と奏聞した。このため上皇は法親王に(御導師を務めるよう)頼まれた。しかし(法親王は)長旅の間、略装だと知りながら旅路に随っていた。急にこの役を務めることは、都合が悪い。そのため(法親王はこの役を)務められなかったそうだ。したがって僧正が(御導師を)務めた。
供養が終わって布施があった。僧正が進上した導師の被物二領のうち、織物一具を散衆に、布施一領を□□に、一領につき一褁を副えて与えた。民部卿以下が順番にこれを取った。〔弘法大師袈裟の事〕次に僧正が贈物(=布施)を進上された。本院の御料の三衣を弘法大師の袈裟筥に置いた。また巨勢金岡の絵様を錦でこれを包んだ。貫玉を作り、それと共に伝えた。聞いたところでは、(錦は)日ごろ別紙に記して筥の中に納めていた。塔東面の戸でこれを取り、御所で進上したという。次に新院の贈物があった。(贈物は)弘法大師の御自筆十八通であった。黄の錦で(これを)包んだ。(錦は)白金で装飾されていた。僧正が往復するのは大変である。そこで私がこれ(=贈物)を取って僧正に渡した。(僧正は)それぞれ自ら(贈物を)取りなさった。(藤原)顕盛を呼んで(僧正に)本院の御料を与えた。(また、)(藤原)顕能を呼んで新院の御料を与えた。次に御所に還御された。(院は)「皆々早く布衣に着替えて参仕せよ。大塔を参詣する。」とご命令なさった。そのため急いで私は参上した。両院もまた塔に渡御された。その儀は前と同じであった。
大塔の南側に御輿が連なっていた。階に高く御輿を傾けた。私は「階から上り下りする時には、(御輿を)腰の横に担ぐのではないか。」と申した。しかし今回は階の正面から担ぎ上った〈上皇のご命令であったという。〉〔大塔にて高照寺愛染王御念誦百萬反を始められた事〕(大塔に両院が)入りなさった。この南面の戸中を御所とした。両院は内戸の外の御屏風にお出ましになった。御座を戸中の左右に敷いた。招かれた山籠は百人であった。東西に分かれて座っていた。各々五十人に分かれていた。尊勝愛染明王の御念誦、今夜から百万遍唱える予定である。□□山籠良禅が発願した事だ。後に布施が与えられた。(布施は)小袖一領・綿二十両・白布五端であった。(それに)導師の料であった装束一具・直垂一領を加えた。公卿・殿上人が往復してこれを取った。(殿上人の)人数が少なかったため、閑処で寺領の法師もこれを取った。このほかに莚・敷皮、米・鹽・和布類が多く与えられたという。これらは近臣の受領が各々進上したものであった。 -
『長秋記』大治二年十一月三日条 現代語訳①
四日庚寅
寅の一剋(=午前3時から5時頃までの時間帯)に(私は)御所に参った。(私は)白織の襖を着ていた。(法皇?は)紫衣を着て出発なさった。[奥院に到着された事、]法皇(=白河)が乗った御輿が先行した。新院(=鳥羽)は歩きだった。仁和寺宮大僧正も皆歩きだった。長者の権僧正は、夜より(=昨晩から)奥院に詣でて(本院・新院のお出ましを)待ち申し上げていた。まだ松明を消していなかった。(一行は)奥院に到着した。(奥院の)橋の下より、本院は(御輿を降りて)藁履きを履いて歩いて奥院まで向かった。(奥院の)禮殿の南廂の東の一間と、同じく(禮殿の)母屋の二間を御所(=本院がいらっしゃるところ)とした。(御所に)御簾を懸けた。御簾の中に御座の茵等の(本院が座ったりするための)敷物を敷いた。禮殿の中央間の母屋に、供養の法壇を置いた。(母屋の)四面(=四方向=東西南北)に仏への供え物を置いた。(母屋の)四角に燈明をかかげた。供壇の巽(=南東)・坤(=南西)の方角に高座を立てた。その中央(=南)に禮盤(=導師が礼拝・読経する、仏前の高座)を二脚を立てた。母屋の東の一間の東辺に高麗端の畳を一枚を敷いて、法親王の座とした(之中分北、御所としたのは南だった。法親王の座は西面だった)。(母屋の)南廂の東の一間にも、同じく畳を一枚を敷いて、二人の権僧正の座とした(北西だった)。(供養をするための場所は)母屋の西の第一間と北廂、そして南に及んでいた。紫端の畳を敷いて、七僧の理修三昧の僧の座とした(七僧は皆山籠の僧であった。暗くて全員の様子などは詳しくは分からなかった)。
良禅阿闍梨を呪願とした。聖仁阿闍梨を導師とした(西に座っていた)。(母屋の)東廂の中央より南に、高麗端の畳を敷いて、上達部の座とした。(母屋の)西廂に紫端の畳を敷いて、侍臣の座とした。廟堂の大師は、その外の二つの壇に御燈明を置いた。他の人々はお供え物を器に盛った。禮堂の南から約二丈ほど離れた場所に行き、幔を引いた。その幔の中に軽幄を立てた。二つの壇上に(経を読ませたことに対する)僧への布施として、それをのせておく台を立てた。右衛門佐顕能が僧綱等の座を用意した。□□□[御]燈明、(私は、法親王に)「御諷誦に際して別の導師をして、(仏に)申し上げさせるのがよいか。それとも、御経供養に続いて同じ導師がその役割を兼ねるべきだろうか。もし役割を兼ねるのであれば、御経供養の前後はどうなるであろうか。」と尋ねた。法親王が答えて言うことには、「別の導師にやらせるわけにはいかないです。御経供養に続いて御諷誦をするべきであります。法会の順序・やり方は導師たち皆心得ていることであります。」とのことだった。御経供養の法要で使う散花(=紙製の蓮華の花びら)を花筥に分けて入れた。殿上の五位が花筥に入れられた散花を手に取り(禮堂の)南縁に立った。御経供養が終わって、理修三昧行道が御経供養に続いて行われた。一連の行事が終わって(本院が)布施を与えなさった。本院の布施は民部卿に、新院の布施は左京大夫に与えられ、(左京大夫が)これを受け取った。戸部(=民部卿)は導師料(=導師を務めた事への褒美)として(布施を)良禅に与えなさった(一の座の者であった)。顕能がそれを取り返し御導師(=聖仁)に与えなさった。そのほかはは、順番にこれを取った。私は、一の座の良禅がとるべき布施を取った。僧綱等も前に倣って布施を取った。戸部は、□□日法眼に与えられたそうだ。諸卿以下は各々解散してしまった。上達部は布施を取った。
上達部が布施を取っていた間、禮堂の北庭で、御塔木作を始められた。忠盛朝臣が行事を務めた。(忠盛朝臣が奉行として)高野山の木を切って御塔木作の材料を調達した。住僧等の要望により、「廟堂に御塔を造立せよ。」との御願が有った。権僧正が庭に降り、廟堂に御塔を造立するということを(神仏に)啓白した。(庭に)半帖を敷き磬臺等を立てた。但し意見があったので本堂は壊さないこととした。「本堂の上に御塔を造り、(本堂を)覆うのがよいだろう。」ということだった。また「この場所に元あった三重塔は、野火の為焼亡してしまった。其の後一間四面の堂を作った」とのことだった。この間空が漸く明け暗い空が明るくなってきた。事が終わって(本院は)帰りなさった。来た時と同じように橋を渡った後、本院の御輿が移動している間、顕盛朝臣が御輿をお支えし申し上げた。(本院は)辰の始め(=午前七時頃)に中院の御所に帰りなさった(=到着なさった)。前々から決まっていたことは、直接御影堂に到着する予定だった。しかし突然、決まったことを改めて目的地を変えた(=中院の御所に向かった)。本院からのお手紙には、「(私=本院は)以前、御影堂を奉禮したことがある。また(私=本院は)前年も奉禮したのだ。」と書いてあった。また、「今日(御影堂に奉禮している本院=自分の)どこにもすれ違う人がおらず、人々が奉禮しないことは、どういうことだろう。」と書いてあった。(それに対する)新院の御返事は、「ただ本院の決めなさることに従うだけです。」とのことだった。
(新院が私に)内密に仰せられていうことには、「高野山に詣でる人は、必ず御影堂を奉禮するらしい。しかし(本院が)理由もなしに奉禮することをやめた気持ちは理解しがたいけれども、(私たちは)ひたすらに(本院の)決めたことに随うのみのため、あれこれと申し上げないのだ。」とのことだった。(はたして本院には)いやいやながらも、御影堂に奉禮に行ったが、誰も奉禮の人がいなかったことに対して、ご機嫌を損ねることがあったのだろうか。顕能が人々に(本院の命令を)伝えて言うことには、「早く束帯を着て参上しなさい。御影堂において奉禮はしなくてよい」とのことだった。この間新院はまだ藁履きを脱がないままで、縁に尻を懸けて座っていらっしゃった。私たちは堂上に昇らなかった。宿所に退下した。[西御塔食を供えた事。]食仕が(食事の準備を)まだ終えていないと人が告げたということらしい。
両院が西御塔に御幸なさった。本院は輿に乗られた。新院の御車の後ろに列する歩行は、民部卿(藤原忠教)と侍臣二、三人以外いないとの事だった。これに驚いて急いで参じたのだが、泥濘がひどく上手く歩けなかった。この為に襪を脱ぎ、改めて靴を履き参上した。堂上に上ってから襪を履いた。御所方に参じて、僧が行列を成す間に西南の座に座った。御塔の東面を御所とした。南・西・東の三方の戸には御簾を懸けた。その(御簾の)中の事は見えなかった。両院・法親王はその中に着座された。(塔の外側の)坤(南西)の方角の角にある簀子敷の南面に公卿座を敷き、西面に侍臣を敷いた。堂の童子座は東面にあった。簀子敷の内の戸内に供養法檀を設置した。東庭幔門から堂の南階に至るまで筵道を敷いた。幔の外から集会所に至り、そこで板を打ち敷いた(脱履に準え、集合場所とした)。(西御塔内に吊られている)盖具と御塔の寶幢を手に取った。冣勝寺に借り渡されるものである。当初から府・諸大夫が促して準備された。
この御塔の起こりは、新院が参詣なされた時の御願である。越中守公能が(指揮を執って?)造立した。当然(公能も?)共に参上して勤賞に預かるはずだったのだが、侍従の中納言が亡くなられた為、一族が全員(自宅に?)留まる事となった。この為に参仕できなかった。しかし、布施・供養は普通国司が担当する仕事である。(今回は)式部大夫友兼が公能家の沙汰人として、全てのしつらいの装束・荘厳の供具はどれもやり過ぎな豪華だった。
御塔の四面に纐纈の幔を引き、庭中の少し東側に進んだ所に御誦経の幄があった。
公家両院はそれぞれ案を置き上に布を積んだ。法螺持・幡鐃鉢散衆・持金剛衆の行列は通例通りだった。散衆二十人、中為□□□覺阿闍梨、林覺が上首となった。行道は塔中に道が無く、簀子敷を道とした。法親王と共に阿闍梨・山籠等が共に勤仕した。この役は、散花・堂童子は家成、経雅、重利、範隆が共に勤仕した。
(勤仕が)終わって、御誦経使左少将忠基朝臣(帯剣していなかった)が、顕盛朝臣を介してその詳細を奏上した。(民部卿が)公卿を座末に呼んで禄を与えた(圓座を準備しなかったのでただ座末に控えた。戸部が言うには、雨で濡れていても形式通り奉拝するのが正しいとの事だった。私は雨で濡れている時は奉拝する事は無いと述べた。これにより、戸部は奉拝する必要の無い旨を示した)。
供養が終わって諸卿が布施を取る際には、蔵人が当然布施を渡すものだ。だが、今回は六位の者が一人も参じなかった。よって主典代が布施を渡した。散衆二十人全員が布施として被物を受け取った。
民部卿が仰せを預かり、導師(聖仁阿闍梨)□法眼源覺を権少僧都に任命した。導師は恭しく膝を屈してそれを承った。源覺に(その事を)示した。僧が退出してもまだ事が始まらないまま、朝隆が導師への祿として法服・布施を用意してこれを準備していたのだろうか。民部卿が行事判官代朝隆に仰る事には、法服のみを先に導師に下賜するものだ。だが、布施と共に導師に下賜しようとするのは大変にけしからん事だ。だから早く導師に (法服のみを)下賜しなさい(との事だった)。朝隆はこれに随って、(法服を)持って衆会所に向かい導師に下賜した。しかし民部卿が顕保朝臣を介して(殿下に?)この事を奏聞した。なので朝隆を呼び出し事の詳細を問い質されたとの事だった。後々に朝隆と会話した際、「この事は奏聞するような事ではありませんでした。(法服と布施を同時に下賜しようとした事については)自分が誤ったと思い、もう遅いとは思いながらも導師に下賜しました。民部卿が驚かれたので、(その指示通りに)まだ事が始まらない内に先に(導師に法服を)下賜したのです。ですが、これはわざわざ奏聞に及ぶような事ではありません」との事だった。かなり(民部卿を)恨んでいるのだろう。今日から供僧を任命して供養法が執り行われ始めるとの事だった。また、僧五十人によって尊勝陀羅尼を百万遍執り行うとの事だった。 -
『長秋記』大治二年十一月三日条 読み下し②
次いで東御塔に渡御す。〈本院御輿、新院歩行、〉件の御塔、長吏の権僧正、本院御祈所に造立せらる也。九輪の鐵、尊勝不動尊・降三世を以て其の中に安置す。西庇南の妻を御所と為す。其の東の簾外に法親王候じ給ふ。導師権僧正輿を下りる。散衆山籠十口幡外に行列す。然れども進出せず。顕能子細を相尋ねるの処、二人の法螺吹中一人未だ参らず、仍って相待つと云々。顕能即ち引くべきの由示し遣す。仍って別に散衆五口参る。仏前の東方に群列す。持金剛衆五口、右遶一匝す。人々子細を知らず。皆行道すべしとてへり。然れども僧等故実を知り其の命に随はず。
僧正、使を以って下官に示して云はく、御影堂におひて、両院贈物を進らすべきの由、存ぜしむる所也。而るに影堂に礼せしめず、今において何処において供うべけんや。答へて云はく、此の御塔において進らし給ふべき也。手自ら造る所の塔也。尤も此の所において祈らしめ給ふに便宜ある歟。散花の間、堂童子経隆、経雅、丹後守家成等也。件両塔、御願文有るに依り、御願の趣を仰せず。導師権僧正兼日奏聞せられて云わく、自身の造る御塔御願を備ふべし。仍って布施供養を設けん。而るに自供養の條、尤も憚るべし。尚御導師において、他人奉仕すべしとてへり。是に依り上皇、法親王を請わしめ給う。然るに行路の間、省略を存じ羈旅に従ふ所也。俄かに此の役を勤仕す。事において便無し、仍って勤仕する能わずと云々。仍って尚僧正奉仕す。
供養了りて布施。僧正進らす所の導師被物二領の中、織物一具散衆、一領布施□□一領一褁を副え給ふ所也。民部卿以下次第に之を取る。〔弘法大師袈裟の事〕次いで僧正贈物を進らさる。本院の御料、三衣弘法大師の袈裟筥に置かしむ。又巨勢金丘の絵様、錦を以って之を褁む。貫玉之を作り、相伝ふ。日来別紙に注し筥中に納む。塔の東面の戸において之を取る。御所に就き進らさる。次ひで新院の御送物、大師御自筆十八通、黄の錦を以って褁む。白金を以って付す。僧正往復に煩ひ有り、仍って下官之を取り僧正に伝ふ。各自ら取り御ふ。顕盛を召し本院の御料を給ふ。顕能を召し新院の御料を給ふ。次ひで御所に還御す。仰せて云はく、人々早く布衣に改め着し参仕すべし。大塔を詣でしめ御ふべき也。是に依り忩ぎ下り乃ち参上す。両院又塔に渡御す。其の儀前の如し、大塔の南面に御輿を䡨す。階に高く御輿を傾ぐ。下官云はく、階より上り下る時、横に荷ふべき歟。然るに只階に向かい荷ひ昇る〈上皇の仰せと云々〉。〔大塔におひて高照寺愛染王御念誦百萬反を始めらる事〕、入御す。件の南面戸中を御所と為す。両院内戸の外の御屏風に御出す。御座を戸中の左右に敷く。屈請の山籠百口、東西別に居す。各五十口に分かつ。尊勝愛染王の御念誦、今夜より百万遍を満たすべし。□ □の山籠良禅発願す。後に布施を給ふ。小袖一領、綿二十両、白布五端、導師料の装束一具、直垂一領を相加う。公卿・殿上人交わりて往反し之を取る。人数少なきに依り、閑処において寺領の法師之を取る。凡そ此の外、莚敷皮、米鹽・和布類巨多也と云々。是近習の受領各進らしむ所也。
次いで新院薬師堂に渡御す。東の階より昇る。御座に着す。正面の戸の中に御座を儲く。御燈明を供ふ。元の支度、良禅を以て御燈明の導師と為すべし。而るに東御塔に候じ参る能はず、仍って山籠の行賢を以て導師と為す。[新院□薬師御念誦百萬遍を始めらる事、]此の御寺において薬師御念誦百萬遍を満たすべきの由、又僧五十口を仰せらるなり。供料の外小袖一領を賜ふべし云々。西塔の請僧の施物少なし。東塔の梵侶の供物多し、只北縣に在りて南縣を望むが如し、権僧正参らる。やや久しくして大塔に還御す。両院戸を閇じ籠居す。上卿敷皮に祗候す。漸く亥の刻に及び、時に風霰相交わる。苦寒甚だし。伝へ聞く、本院御自ら行ふ咒遍に限り有り、其の了り御ふを待つの間此の時に及ぶと云々。遍く子の時に及び還御す。宿所に退下し□就寝す。今夜の暁鐘已に報す。驚きて朝膳を催す。且つは衣裳を着す。鶏鳴の間御所に参る。人々皆参ると雖も、天明を待つ。
暫く出御せず。山路嶮難、樹陰暗然、仍て事の煩ひ有る故なり。此の間御前に候ず。東方白む間出御す。今夜房主圓如房来談の次いで、相尋ねて云く、「入定全て警蹕を停めしめ、鐘皷の音響を止む。而して其の上塔婆を造営すること其の憚り無かるべきか如何」。答へて云く、「山僧等相議して云く、『此の山の根本三基の塔なり。其の中二基において、二帝の御願に依り造り畢り供養す。山徒の大慶是を過ぐべからず。今度の御廟塔尤も然るべし。造作の間の憚りにおいて、是新儀に非ず。大師御入定の後、実恵僧都彼の塔を造らる。又野火の為塔已に焼ける。後に年序を経るの間、其の旧跡を尋ね、此の小堂を立つ』とてへり。造作の條全く憚り有るべからざるか。就中修理の時、堂中に入り見御ふの処、全く事を恐るべからず。故何となれば、堂の中央間是御廟壇なり。其の上方丈に覆ふ磐石は、事において侵損すべからざるか」、と云々。
今朝新院仰せて云く、「廟堂の上塔を立てらる事、本院の叡慮未だ一決せず。故何となれば、造立の事の御願已に了んぬ。必ず事を果たさるべきなり。而るに旧堂を破り更に大造を致す事憚り有らば、本堂の上重ねて塔を立つべきの様、思し食し成さる所なり」、とてへり。下官奏し申して云く、「御堂入道此の山に詣づの時、山僧等の懇請に依り、廟塔を立つべきの由沙汰有りと雖も、仁海僧正憚り有るべからざるの由詳しく申さず。仍て田地を寄せらる、塔婆を立てざるの由、伝承する所なり」
裏書に云く。
御装束の事、北庭に在るべきの由、本院の仰せを蒙る。夜前判官代朝隆奥院に参る。而るに夜雨に依り禮堂に奉仕す。上皇尚ほ北庭に在るべきの由、御気色有りと云々。且つは是法皇第二度の御参詣、(寛治五年、)禮堂に高座を立つ。是に依り、山籠良禅、琳賢等、彼の例を逐ひ堂中に立つと云々。 -
『長秋記』大治二年十一月三日条 読み下し①
四日庚寅、
寅の一剋御所に参る、白織の襖を着す、紫衣を□て出御す、[奥院に着御する事、]法皇(=白河)の御輿先行す、新院(=鳥羽)歩行す、仁和寺宮大僧正皆以て歩行す、長者の権僧正夜より奥院に詣で待ち奉る、未だ松火を消さず、奥院に着す、橋下より本院藁履きを着し歩行す、禮殿の南廂の東の一間、同じく母屋の二間を御所と為す、御簾を懸く、其の中御座の茵等を敷く、禮殿の中央間の母屋、供養の法壇を居ふ、四面に佛供を居ふ、四角に燈明を挑ぐ、供壇の巽・坤高座を立つ、其の中央禮盤二脚を立つ、母屋の東の一間の東邊高麗端の畳一枚を敷き、法親王の座と為す□□、(之中分北、御所と為すは南なり、件の座は西面なり、)南廂の東の一間同じく畳一枚を敷き、事権両僧正の座と為す、(北西、)母屋の西の第一間、北廂幷びに南に及ぶ、紫端の畳を敷き、七僧の理修三昧の僧の座と為す、(皆是山籠の僧なり、暗然不分明、)
良禅阿闍梨を呪願と為す、聖仁阿闍梨を導師と為す、(西、)東廂の中央より以南、高麗端の畳を敷き、上達部の座と為す、西廂紫端の畳を敷き、侍臣の座と為す、廟堂の大師、其の外の壇上雙両所に御燈明を居ふ、各立器を盛る、禮堂の南二許丈去き幔を引く、其の幔の中軽幄を立つ、両所御誦経物の案を立つ、右衛門佐顕能僧綱等の座を進らす、□□□燈明、御諷誦別の導師を以て啓白せらるべきか、はた御経供養に次いで、相兼ねて候ずべきか、相兼ねるに付き、御経供養の前後如何、法親王申されて云く、別の御導師候ずべからず、御経供養に次いで啓白せらるべきなり、其の次第導師皆存ずる事なり、御経供養の法用の散花花筥に分ける、殿上の五位、件の散花執り南縁に立つ、御経供養了りて理趣三昧行道之に続く、事了りて布施を給ふ、本院の被け物民部経、新院の被け物左京大夫これを取る、戸部導師の料を以て良禅に賜ふ、(一の座の者、)顕能取り返し御導師に給ふ、自余次第にこれを取る、下官、一の座の良禅の料の布施を取る、僧綱等前の如し、戸部□□日法眼に賜ふと云々、諸卿以下各別れ了りて上□□布施を取る、
布施を取るの間、禮堂の北庭において、御塔木作を始めらる、忠盛朝臣を行事と為す、此の山を以て切り用ひ了んぬ、住僧等の事に依り、廟堂御塔を造立すべきの由、御願有るなり、権僧正庭に下り、其の由を啓白す、半帖を敷き磬臺等を立つ、但し議有りて本堂を破らず、其の上に造り・覆ふべしと云々、元三重塔、而して野火の為焼亡す、其の後一間四面の堂を作ると云々、此の間天漸く明け色を分かつべし、事了りて還御す、初めの如く橋を渡りて後、本院の御輿進退するの間、顕盛朝臣扶持し奉る、辰の始め中院の御所に還御す、兼ねての議直に御影堂に着御すべし、而るに俄に定を改め件の議を停めらる、本[院の御消]息に云く、予先年御影を奉禮す、又前年に委しく奉禮せしめ給ふと云々、今日旁に指し合ふ人無く候、禮せしめざるは如何、新院の御返事に云く、只御定に随ふべし、とてへり、
密々に仰せられて云く、此の山に詣でるの人、必ず御影堂を奉禮す、而るに故無く停止し未だ其の心を得ずと雖も、一向に御定に随ふの故、左右申さしめずと云々、頗る御不請の気有るか、顕能人々に仰せて云く、早く束帯を着し参上すべし、御影堂において禮せしめざるなり、此の間新院未だ藁履きを脱がず、縁に尻を懸け御座す、下官等堂上に昇らず、宿所に退下す、[西御塔食を供ふる事。]食仕未だ了らずと人の告ぐと云々、
両院西御塔に御幸す。本院輿に乗る。新院御車の後の歩行、民部卿幷侍臣両三人の外に人無しと云々。これに驚きて急ぎ参るに、泥深く行歩能はず。
仍って襪を脱し更に履を着し参上す。堂上に昇り襪を着す。御所方に参り、僧行列する
間西南の座に着す。御塔の東面を御所と為す。南・西・東三方の戸に御簾を懸く。
其の中の事見へず。両院法親王その中に御坐す。坤角の簀子敷の南面に公卿座を敷き、
面に侍臣座を敷く。堂童子座は東面に在り。簀子敷の内の戸内に供養法檀を居ふ。
東庭幔門より、堂の南階に至り、筵道を敷く。幔の外より集会所に至り、板を打ち敷く
(以て脱履に准じ、集会所と為す)。盖具幷に御塔寳幢を執る。冣勝寺に借り渡さる。
□□□府・諸大夫本より具を催さる。
件の御塔の始まり、新院参り御はしむる時の御願なり。越中守公能造り畢んぬ。
須らく御共に参り勤賞に預かるべきと雖も、侍従中納言喪ふるに依り、一族皆留まり了んぬ。仍って参仕せず。然れども布施・供養は、併しながら国司の調献する所なり。
式部大夫友兼、彼家の沙汰人として、凡そ鋪設の装束、荘厳の供具皆以て過差なり。
御塔四面、纐纈幔を引き、庭中頗る東に進みて御誦経幄有り。公家両院各案を立て布を積む、法螺持・幡鐃鉢散衆・持金剛衆の行列常の如し、散衆廿口、中為□□□覺阿闍梨、林覺上首、行道の塔中に道無し。簀子を以て路と為す。法親王御共に、阿闍梨幷に山籠等相交りて勤仕す。此役、散花・堂童子家成、経雅、重利、範隆相交わりて勤仕す。
事了り、御誦経使左少将忠基朝臣(剣を帯びず)、顕盛朝臣を以て事の由を奏す。
公卿を座末に召し禄を給ふ(圓座を儲けず、仍って只座末に候ず。又戸部に云く、雨濕と雖も形の如く拝するべし。下官云く、雨濕の時無拝と云ふ、戸部これに依り拝すべからざる由示さる)、
供養了り諸卿布施を取る時、蔵人これを伝ふるべし。今度六位一人も参らず。
仍って主典代これを伝ふ。散衆廿口皆布施の被物を預く。
民部卿仰せを承り、導師□(法)眼源覺を権少僧都に任じ給ふ。導師敬屈し承る。
源覺に示し、僧退下し未だ事始まらざるの間、導師料の法服・布施を取り具し之を儲くるか。民部卿行事判官代朝隆に仰せて云く、法服に於いては先づ導師に賜ふる所なり。而るに布施を具し之を給ふ、頗る私事に似る。早導師に賜ふるべし。
朝隆是に随ひ、相具し衆会所に向かひ導師に賜ふる。而るに民部卿顕保朝臣を以て此れを奏聞せらる。仍って朝隆を召し尋ね仰せらると云々。後に朝隆相語りて云く、此の事奏聞に及ぶべからず。失を思ひ遅しと雖も給ふ。驚かれるに依り、未だ事始まらざるに先づ給ひ了んぬ。而るに強ちに奏聞に及ぶべからざる事なりと云々。
頗る怨望の気有るか。今日より供僧を補し供養法を始め行はれるべしと云々。
又僧五十口を以て尊勝百万遍満たさるべしと云々。 -
『長秋記』大治二年十一月三日条 現代語訳
●現代語訳
三日己丑 夜明け頃御所に参った。しばらくして出発した。□を取り(高野)山を登った。[政所から中院御所に到着なさった事。]高野(山)の鳥居の前で松明を消した。本院は御輿に乗っていた。新院は御馬に乗っていた。山が険しく□(寒さ?)冴え、落馬の輩□□新院は御馬に乗っていた(=高野山登山の険しい山道の中、寒さも厳しく、落馬する者も現れた。そのような中で新院は馬に乗っていた。?)。左武衞は、白葦毛の馬に乗っていた。一度も(白葦毛の馬の)毛に泥がつかなかった。(それは左武衞が馬から)下りたり上ったりする間ごとに、人の(左武衞の馬を)汚さないようにとの用心が有ったからである。馬が優れていたからではない。善い行いの始まりは、ことさらに(本院・新院の)御心に叶うことであった。笠木の借屋で、長吏の権僧正が破子(=食器)を供した。本院の御料(=食器)は蒔絵の御手筥□だった。新院の御料(=食器)は使い古された蒔絵の御料(=郁食器)だった。公卿・侍臣の料(=食器)は皆檜(=生地)の食器だった。本院が先ず席にお着きになった。
(本院は)新院がいらっしゃるまでの間、食事の席で暫く休息なさった。(新院に)いらっしゃってくださるように申し上げた。(それを受けて新院は)先に行きなさった。経忠卿以下が食事の席に着いた。私が食事の手はずを整えた。(本院/新院が)僧・御随身等に酒肴を持ってくるようにお命じになった。立ちながら酒肴を差し出した。(食事を終えて)出発した。道がうねうね曲がりくねっていて、さらに坂道であるところで御輿を下ろした。前駈等も此の所で下馬した。藁履きを履いて(登山しやすいように)杖を取った。新院もまた此の所で藁履きをお履きになった。だいたい殿上・侍臣以下、雅康朝臣の外は皆すべて歩きであった。付き人らは皆等しく歩きだった。「召次は、(この場所に)留めておき、馬に乗っている人や集団がいたら追い払え。」という命令だった。巳の始め(=午前九時頃)に中院御所に到着された。人々は足を洗って(山道の汚れを落とし)御所に参った。今夜雨が降った。名山というのは、人が大きな声で話している時に必ず雨が降るものであるらしい。ややあって天気は快晴となった。□□成悦(うれしい?)、 -
『長秋記』大治二年十一月三日条 読み下し文
●読み下し文
三日己丑 鶏鳴御所に参る、やや久しくして出御す、□を取り山を攀づ、[政所より御中院御所に着す事、]高野の鳥居の前において松火を消す、本院は御輿、新院は御馬、山險しく□(寒さ?)冴え落馬の輩□□新院御馬に乗る所、左武衞、白葦毛なり、一度も泥無き事、下り上る間ずつ人の用心有るがごときなり、是馬の駿にあらず、宥善の開發、ことさらに御意に叶ふなり、笠木の借屋において、長吏の権僧正破子を供ふ、本院の御料は蒔絵御手筥□、新院の御料は蒔絵儡子、公卿・侍臣の料は皆檜の破子なり、本院先ず着御す、
[新院]御する間、此の所において暫く休息す、昇らしめ給ふべきの由申し置く、先ず行き御ふ、経忠卿以下破子に着す、下官沙汰を召す、僧・御随身等酒肴を賜ふべきの由召し仰す、立ちながら之を羞める、乃ち進發す、盤折坂本において御輿を留む、前駈等此の所において下馬す、藁履きを着し杖を取る、新院又此の所において藁履きを着し給ふ、凡そ殿上・侍臣以下、雅康朝臣の外皆悉く歩行す、人共に従ひ等しく同じく歩行す、召次を留め、騎馬有らば追い下げよと云々、巳の始め中院御所に着御す、人々足を洗ひ御所に参る、今夜雨下る、名山の例、人高聲する時必ず雨降ると云々、幾程を経ず天顔快晴、□□悦びと成す、 -
『長秋記』天治元年正月五日条 〇参考 朝覲行幸の儀式次第
●朝覲行幸の儀式次第
以下は、『朝覲行幸次第草』と『朝期覲行幸次第』から作成した。以上の二史料については、太田克也・藤原重雄「宮内庁書陵部所蔵九条家本『朝覲行幸次第草』・『朝覲行幸次第』―藤原忠通『玉林』佚文拾遺―」を参照のこと。
➀定刻に公卿たちが陣の座に集まる
→②関白(摂政)が殿上で雑事を行う
→③職(蔵人ヵ)が日時勘文を見る
→④関白(摂政)も見て、その後、行事を担当する上卿に渡す→⑤行幸の間、内裏の留守番をする人を呼ぶ
→⑥衛府の公卿以下が弓箭を所持する
→⑦天皇が南殿にいらっしゃる
→⑧天皇は広庇・長橋(清涼殿の東南隅から紫宸殿に通じる橋)を通って紫宸殿の北西にある北面戸から(北庇に)入って、御帳台の後戸でしばらく待つ
→⑨草薙の剣を持った内侍が御帳台の後戸から、御帳台の東を通って御帳の前である母屋東の南頭に立つ
→⑩八尺瓊勾玉を持った内侍が、⑨の内侍と同じ戸から御帳台に入り、御帳台の西を通って御帳台前の南頭に立つ
→⑪天皇は⑨⑩の内侍が利用したのと同じ戸から母屋に入って、御帳台西の間中央に立つ
→⑫近衛が陣を引く
→⑬陰陽師による反閇が紫宸殿で実施される・天皇は御帳西南の柱を通って御帳台の前に立つ
→⑭右近衛次将が東に渡る
→⑮公卿が南庭に並ぶ
→⑯闈司(鍵の管理や出納司る職)が奏上する
→⑰少納言が鈴奏する
→⑱大刀と契を辛櫃から出して担ぐ
→⑲御輿を寄せる
→⑳上﨟の次将が御輿の戸を開き、草薙の剣を御輿内に安置する→⑳天皇が御輿に乗る
→㉑次将が八尺瓊勾玉の箱を御輿中に安置する
→㉑⑳の時関白(摂政)は、南庇を経て東階に降り靴を履き、しばらく軒廊・南庭に立つ
→㉒参加する公卿は前行して騎馬する
→㉓御輿がようやく進行する→㉓御輿が紫宸殿を出る
→㉔関白(摂政)は左衛門陣の外で騎馬する
→㉔公卿は御輿の担ぎ手の後ろ・殿上人の前に仕える
→㉕御輿が女院の在前に到着する
→㉖最初に公卿が馬から降りて、殿上屏風の前に並ぶ
→㉖大将が馬から降りて、門の内に左右に立つ
→㉗左兵衛の陣が㉖と同じ門の南脇に並ぶ
→㉘関白(摂政)が門の辺りで馬から降りる
→㉙使の院司である公卿が、行幸してきた旨を奏上する
→㉚㉙のとき楽屋で乱声を発する
→㉛関白(摂政)が進む
→㉜御輿を進行させ、中門の許に据える→上﨟の次将が参進して、御輿の戸を開き草薙の剣を取る
→㉝天皇が御輿から降りる
→㉞天皇が御休所に入る
→㉟公卿が殿上に着いた後、雑人を払い中門を閇じる
→㊱公卿の院司が敷物を敷く
→㊱上皇(法皇)が御母屋に着座する
→㊲天皇が御休所から出御する
→㊳天皇が御拝する
→㊴天皇が御休所に還御する
→㊵上皇(法皇)が入御する
→㊶寝殿の装飾を改める
→㊷近衛陣胡床
→㊸天皇が再び寝殿母屋簾中に渡御する
→㊹太閤と摂政が簀子敷の円座に着く
→㊺蔵人頭に諸卿を呼び出させる
→㊻諸卿が参上し、御前の円座に着く
→㊼関白(摂政)が楽行事に命令する
→㊽乱声する
→㊾鉾を振る
→㊿左右近衛が音楽を奏で、舞を舞う
→51:勧盃
→52:天皇に御膳を供える
→53:舞の間、舞人・楽人に対する勧賞が命じられる
→54:暗くなると灯を点す
→55:中間が御儀に入る
→56:舞が終わり、胡坐の次将が会場から退く
→57:管弦の準備をする
→58:管弦のため招集された殿上人を呼び出す→招集された殿上人の座を敷く
→59:管弦をする
→60御贈り物賜る
→61:管弦が終わり、蔵人頭が禄を関白(摂政)以下に与える
→62:天皇が入御する
→63:御膳を撤収する
→64:院司の賞を命じられる
→65:関白(摂政)が宿所に下る
→66天皇が還御する -
『長秋記』天治元年正月五日条 語釈
- 朝覲行幸:天皇が年の初めに太上天皇・皇太后の宮に行幸し、新年の礼をとり、あいさつに行くこと。朝覲とは、『周礼』春官、大宗伯に「春見曰朝、(中略)秋見曰覲」とある。その行幸は儀衛を厳にし、御所に近づくと警蹕を止め、中門の外より天皇は御輿を下りるのを原則とする。嵯峨天皇が即位四ヵ月目の大同四年(八〇九)八月に行なったのを文献上の初見とするが、正月の朝覲行幸は仁明天皇承和元年(八三四)正月二日、淳和院に太上天皇を拝覲したのが最初である。太上天皇は喜んで迎え、おのおの、中庭で拝舞し、ともに昇殿し、群臣に酒を賜い、音楽が奏せられるなど、華やかな宴が行われた。左右近衛府がさらに舞を奏したのち、上皇は天皇に鷹などを贈物として献上した。天皇が帰るとき、太上天皇は相送りて南の屏の下まで行ったという。(―中略―)具体的な式次第は以下のごとくである。正月二日・三日・四日に行うのを原則としたが、吉日をえらぶ場合もある。天皇は后宮近辺に警蹕を停め、中門の外で御輿を下りる。近衛中将が神璽を持ち、輦戸を開き御剣を取り、しばらく沓脱の下で天皇が輦を下りるのを待ち、天皇が進み寄ると沓脱を昇り次将が先行するのを故実とする。早速昇殿して御剣は左を先にし、璽は右を後にし、上臈の将が御剣を内侍に授く。王卿は魚袋を着し、天皇が上皇ならびに皇后の御前に参り拝賀の礼をする。公卿は寝殿の御前の座に候し、一部の公卿は簀子、渡殿の座に二行に並ぶ。神祇官は門前で大麻を献ずる。このことは、後三条天皇以後行われなくなったという。雅楽寮は音楽を奏し、天皇は御靴を着す。宴があり、上皇が今上に単衣を賜うことなども宇多上皇から醍醐天皇への場合をはじめとして、しばしば行われた。天皇が上皇・法皇と二院または三院に行幸する場合もある。正月の朝覲行幸のほかに、元服後の朝覲行幸もある。(『国史』)
- 二条殿:平安京二条南東洞院東に営まれた藤原教通の邸宅。教通は万寿二年(一〇二五)ごろから二条殿の造営に着手し、同四年秋に移徙、以後ここを本所とした。教通が「大二条関白」と称されるのはこのことによる。その後二条殿は、康平元年(一〇五八)・治暦四年(一〇六八)の二度の火災に見舞われるが、そのつど再建され、その間後朱雀天皇の皇居や後三条上皇の御所としてたびたび利用された。教通が没すると、同殿は彼の息男信長の邸となり、さらに十一世紀末には信長の女婿後二条関白師通の本所となっている。しかし、師通の死後二条殿は次第に荒廃し、保安元年(一一二〇)正月二十九日の火災では完全に焼失した。そして、この火災を契機に同殿は白河上皇領となったようで、保安四年(天治元年の前年―金久保注―)六月十日には鳥羽上皇の御所がここに新造されている。この御所は、その後長承二年(一一三三)から崇徳天皇の皇居となっていたが、保延四年(一一三八)二月二十四日に焼失した。なお、鎌倉時代に入ると、ここに後鳥羽上皇御所や二条高倉内裏が建設されている。(『国史』)
- 駕丁(駕籠舁):駕籠をかつぐことを業としている人。かごや。おろせ。駕籠遣。駕丁。
- 警蹕(けいひつ):声をかけてまわりをいましめ、先払いをすること。天皇の出入の時、貴人の通行の時、あるいは神事の時など、下を向いて、「おお」「しし」「おし」「おしおし」などと言ったもの。また、その声。けいひち。みさきおい。
- 乱声:雅楽の舞楽で用いられる笛の調べの名称。新楽乱声(振鉾の時に奏する)、古楽乱声(迦陵頻・抜頭などの出に奏する)、安摩乱声(安摩・二舞および陵王の入りなどに奏する)など。古くは、行幸の出御・入御、相撲・競馬などの勝負、集会、その他のおりに奏された。らんせい。らんぞう。
- 璽:玉に刻んだ印形。特に、中国では秦以降、天子の用いるもの。日本では天皇の用いる印章をいう。御璽。天子のしるしである三種の神器。特に、八尺瓊曲玉。
- 龍頭鷁首:平安時代、園遊などの折、貴人の御座船とし、または伶人などを乗せて楽を奏させる船。二隻を一対とし、一隻の船首に龍の形、他の一隻に鷁の形の彫物をつけたり、その形を描いたりしたもの。特に平安時代から室町時代にかけて、皇室・貴族・社寺の行事などの際、泉池や河川で船楽を奏するために重用され、ふつう船差四人、楽人または舞人一〇人内外を乗せ、時には貴族の船遊びにも用いられた。りょうとうげきす。りょうとうげいす。りゅうとうげきしゅ。りゅうずやくす。
- 棹郎:船頭。船をこぐ人。
- 蛮絵の袍:武官の随身用の褐衣(かちえ)の一種。当色の縹に染めた布の欠腋の袍で、蛮絵という獅子や熊、鴛などの円文を板に彫って墨摺りにし、威容をととのえて蛮絵の袍とよび、晴の出行の際に供奉する召具の装束にした。(『国史』)
- 狛鉾(高麗鉾):高麗から伝来したほこ。また、高麗風のほこ。
- 遣水:平安時代の寝殿造において、外から引き入れて庭園につくった流れ。当時の物語などでは、その流れを引いてつくった池泉のことも遣水とよんでいる。(『日本大百科事典』)
- 近仗:宮中の近くで、その警衛にあたる者。近衛の武官。
- 居筥:法会を行なう場所にすえ置く長方形の木製の箱。外側に薄い金属板を張り、内面は錦や綾の切れ、または紙を張ったもので蓋はない。法会の時、導師の僧の左脇机に置き、表白、次第、経巻、説教の原稿などを入れるのに用いる。
- 帛袷:置畳の上に用いる白絹の裏付きの敷物。四方に鎮子を置き、天皇の御拝の座とする。
- 鎮子:調度品の一つ。室内の敷物・帷帳・掛軸などが風であおられたり、飛び散ったりしないようにおさえるおもし。風鎮や文鎮など。ちんす。
- 拝舞:朝廷などで行なわれる儀式で祝意、謝意などを表わす礼の形式。まず再拝し、立ったまま上体を前屈して左右を見、これにあわせて袖に手をそえて左右に振り、次にひざまずいて左右を見、そのまま一揖、さらに立って再拝するもの。左右を見るにあたって、天皇は右左右、臣下は左右左の順を追うので、見る際の作法を左右左という。天皇では朝覲の行幸、臣下では叙位・任官または祿を賜わった時などに行なう。はいむ。舞踏。
- 脇息:すわった時にひじを掛け、からだをもたせかけて休息するために使う道具。おしまずき。ひじかけ。
- 三方:現在の宮内庁楽部を構成している三系統の楽人の旧称。宮廷直属である京都方(京方、北京方)の多、豊(ぶんの=豊原)、山井(大神)、安倍の諸家、奈良興福寺所属である南都方(奈良方)の上、奥、芝、辻、窪、久保の諸家、大阪四天王寺所属である天王寺方(大阪方)の薗、林、東儀、岡の諸家がある。三方の楽人。
〇人名
- 摂政:藤原忠通のこと。当時、二十八歳。
- 大納言経実:藤原経実のこと。当時、正二位行大納言兼按察使、五十七歳。藤原師実の子。ちなみに師実は、藤原頼通の子である。
- 右宰相中将宗輔:平安時代後期の公卿。権大納言藤原宗俊の三男。母は左大臣源俊房の女。没年から逆算すると、承暦元年(一〇七七)の誕生となる。寛治元年(一〇八七)従五位下に叙され、近衛少将・同中将を経て蔵人頭に補され、保安三年(一一二二)参議に昇った。以後諸官を歴任して、保元元年(一一五六)右大臣に進み、ついに従一位太政大臣に至ったが、永暦元年(一一六〇)上表して官を辞し、応保二年(一一六二)正月二十七日出家、同三十日、八十六歳の天寿を全うした。蜂を飼って愛玩したので、蜂飼大臣とあだ名された(『十訓抄』)(以上『国史』)。当時、正四位下左中将兼近江権守、四十八歳。
- 多忠方:平安時代後期の雅楽家。応徳二年(一〇八五)京都に生まる。雅楽の流派の一つ、京都方(がた)に属する多家の出身。父資忠の第三子。父と長兄節方が殺されたため、多家専門の神楽歌や舞楽曲が断絶しそうになったが、資忠から神楽を伝授されていた堀河天皇が、忠方に伝え、宸筆の神楽譜を与えられたという。同じく多家の舞胡飲酒は資忠の伯父政資から伝授されていた源雅実(一説に子の雅定)より返し伝えられた。雅楽の一者たること三十三年に及ぶ。
- 内府:内大臣であった源有仁。当時、正二位右大将、二十二歳。
- 権右中弁顕頼:平安時代後期の公卿。権中納言藤原顕隆の長男。母は越後守藤原季綱の女、鳥羽天皇の乳母悦子(母を美濃守源頼綱の女とする異伝あり)。没年から逆算すると、嘉保元年(一〇九四)の誕生となる。天仁元年(一一〇八)従五位下に叙されて以来、出雲・丹後・丹波の守を歴任する一方、左衛門権佐・右少弁・右中弁・蔵人頭を経て、天承元年(一一三一)参議に昇り,さらに権中納言に進み、大宰権帥を兼ねたが、永治元年(一一四一)両官を辞し、民部卿に任ぜられ、ついで正二位に叙された。その間,鳥羽上皇の腹心として「内外権を執り、際会人に超ゆ」(原漢文)と評され(『本朝新修往生伝』)、公卿を辞した後も、重要な議事には参与した。久安四年(一一四八)正月三日、病により出家、五日没した。十三日、嵯峨野常磐杜の西北に埋葬された(『本朝世紀』)。歳五十五。その第宅、九条高倉第にちなんで九条民部卿とよばれ、その日記は『九民記』と称された(以上、『国史』)。当時、従四位下右中弁、三十一歳。
-
『長秋記』天治元年正月五日条 現代語訳
●現代語訳
正月
五日 晴。(私は)午前八時頃に参内した。早くに(崇徳天皇は、)紫宸殿をご出発なさった。今回は初めて、(母后との)同輿の儀が無かったそうだ。(天皇は)烏丸から北に行き、土御門で東に曲がり、東洞院から南に向かって二条殿西門に到着なさった。御供の公卿や諸司等の多くは、次第に参加してきた。御輿は門の外に停めた。しかし摂政(=藤原忠通)の命令により庭の中(=外門と中門の間の庭)に入れた。〈前例では門外に停めていた。〉御輿を担いだ者たちはかけ声を止めた。神官は御麻を供えた。この間に公卿は、殿上前の屏風の南幔の外に東を上座にして南向きに並んだ。摂政は門内の南脇にお立ちになった。左右の大将はその東に立った。〈左大将が北側であった。〉その時、院別当按察大納言経実卿が列を離れて南に進んだ。西に向かって挨拶し、幕を張った門から中門を通って、天皇がご到着なさった旨を(白河法皇にヵ)申した。両楽は乱声を演奏した。按察は元の場所に戻った。諸司は幕の入り口を開けた。天皇が(庭から中門に)お入りになった。中門の内から(西)対代西庇の南向戸の近くに至った。敷物を道に敷いた。御輿を中門内に東向で安置した。
左右将軍は中門の内に入り跪いた。右宰相中将宗輔は靴を脱いで進み、御輿の戸を開いた。草薙の剣を取って(天皇の)前に進んだ。(その時、)錦道は踏まなかった。(天皇の)西側に伺候した。次に摂政は、主上(=崇徳天皇)を抱きかかえ、(御休所の)長押の上(≒入口)に立たせ申し上げた。私もまた靴を脱ぎ進んで、八尺瓊勾玉を取り、天皇の御後ろの錦道の東に伺候した。天皇が(御休所)お入りになった後、内侍に(八尺瓊勾玉を)預けて退いた。弓を取って中門廊の戸から出た。靴を持ちながら弓を取った。この時、乱声の演奏が終わった。龍頭鷁首を拵えた二船が中嶋の南からやってきて、美しい音色を演奏した。左近将監狛光則は龍頭を拵えた船に乗り舞った。右近将監多忠方は鷁首を拵えた船に乗り、同じように舞った。船頭の童は蛮絵の袍を着ていた。(船は)数回ほど回遊した後、楽屋の南に着岸した。船を降り幄に入った。〈この楽屋は、南庭の池の中心にあった。(床として)板を構えその上に砂を敷いていた。東・西・南にそれぞれ朱の柵を設けた。その上に纐纈染で約二十一メートルの幕を張った。その北中央に太鼓を一つ設置した。楽屋の東西に鉦鼓を立て、その前左右に鉾を置いた。幕の北西に二つの狛鉾と佐保太鼓を設置した。池から北に向かって板橋を二つ架けた。(楽屋の)東側は左近衛の警備の者が配備していた東辺りであり、左舞はここから参上した。西側は池道に当たり右舞はここから参上した。〉
音楽が終わった。この時公卿たちは殿上に控えていた。内大臣は呼び出され(白河)法皇の御許に参上した。(内大臣は)南の方から御簾の中に入った。居箱を取って、(白河の)御座の右方に置いて退こうとした時、上皇(白河法皇ヵ)は庇の西方から簾中に着座した。この御座は寝殿中央の母屋に設置されていた。(法皇の)御座が定まった後、内大臣はその場を退いた。摂政は参進して敷物を取り、主上の御座の上に敷いた。〈この御座は(寝殿)中央の間の庇にあった。敷物は母屋の西にあった屏風に掛けられていた。重石は左屏風の許にあった。摂政は笏を挟んで、敷物をお敷きになった。敷き終わると退いて、重石を取ってまた置きなさった。このおもしは犀の形で四つあった。両手で重石をお取りになった。(主上の)御座の四隅に東と西向きに置かれた。〉次に摂政が法皇のお気持ちを察し、天皇のもとに参った。(摂政は天皇に、今から法皇の許に)渡御しますと申した。主上は対代の東から出て、〈透渡殿に着いた時、摂政は裾を取り、(天皇に)お仕えなさった。〉寝殿西庇の南一間からお昇りになった。〈戸の脇で御笏を(天皇に)お渡しした。頭中将忠宗は御笏を予め用意して置いておいた。(天皇は)ゆっくりと東に行き御座に昇った。北に向き拝舞した。〈略式であった。〉法皇は感涙し涙を拭いなさっていた。儀礼が終わって(天皇は御休所に)還御した。
法皇が(お控えの間)いらっしゃった。法服は白単の袈裟をお召しになっていた。内大臣は御簾を掲げなさった。次に内大臣は、居箱を取りお控えの間に入れた。置き終わると対代の南面に退きなさった。次に権右中弁顕頼が(母屋=拝舞の会場に)参り、法皇の御座を撤収した。そののち、西に面した御簾の中にひじ掛けを入れた。座布団・繧繝染の端畳(の事)。次に三つの役職を兼ねる殿上人五位らは南に面した簀子敷を経て東に向かった。繧繝染の端畳二帖をとって、法皇の御座であった所に(改めて)敷いた。顕頼は東京錦の座布団を取りその上に敷いた。次に新院が寝殿北庇の西向きの戸から出た。西庇の南側に入るとき、母屋から東に行き着座しなさった。〈南に向いていた。通季卿は御供として(新院の許に)控えていた。〉次に摂政が、(会場の天皇御座の)敷物や重石等を撤収し、元のように新しい敷物を敷いた。〈これらは元々御屏風に掛けられていた。(私からは)遠くて見えなかった。(後でほかの人にこの様子を)尋ねてみよう。〉次に(鳥羽の)御旨によって、主上が御拝に渡御した。その儀は前と同じであった。(終わって天皇は、御休所に)還御した。
続いて、上皇(鳥羽上皇)が(御休所に)入御された。更に本の役人らが(会場に)参入した。上皇の御座を片付け、清隆朝臣・顕頼が母屋中央の間に紫壇地兀子を立てた。他の五位らが庇・御簾を垂れかけた。主上(崇徳天皇)が渡御し母后(待賢門院璋子)に奉拝なさった。その間の事を(私は)詳しく分からない。還御された後に聞いた所では、上皇の御座が置かれていた所に紫壇地兀子を立てた。下敷は赤地の錦だった。これは大嘗悠紀で使用するもので、借り渡されたものだった。皇后(皇嘉門院聖子)は末額を結び着御なさった。主上は御拝に白袷を用いられた。新院奉拝の時、主上の御座の帛袷等を片付けて本所に置いた。上皇の御座は繧繝二枚茵などであった。本の御座を敷いたのだろうとの事だった。上皇が(御休所から)出御された。法皇(白河法皇)は御簾の内にお出ましになった。(法皇の)御旨により上が渡御した。初めの道と同じだった。左宰相中将宗輔朝臣が剣を取り前行した。御座を東の方に置いた。
主上が御座に定まった(御笏をお持ちになった)。私は璽を取り(主上の)後ろに控えた。御座定の後、御釼を西南に置き(この時内侍が釼・璽を持ち西対の御簾中に安置した)、太政大臣(源雅実)は東方から出て上皇御前の圓座に着した。
摂政(藤原忠通)も天皇の側に留まり御前の圓座に控えなさった。御出の前に左右近が胡床を立てた。次将らは靴を着用して弓箭を帯びていたという。続けて摂政が頭右大弁雅兼朝臣を呼んだ。諸卿を呼び寄せよとの意向を受け、雅兼は退出して殿上の戸外に控えた。頭を振り返ったが、人々は応じなかった。戸内で右膝を折り「お呼びです」と言うべきだったのだ。(諸卿とは)右大臣、内大臣、大納言経実、能実、宗忠、能俊、忠教、中納言顕雅、実隆、通季、実行、顕隆、雅定、実能、参議宗輔、為隆、伊通、そして私達であった。この間に楽行事に命が下された。左は成通、右は重通(第二の座に着する者である)。勅命を承ってそれぞれが楽屋に向かった。左右共に乱声を演奏したたという。この間に按察大納言参議などが、早く東に廻って主上御膳を用意せよと言った。最初に公卿の衡重を用意したという。実は、早く主上の御膳を用意するよう院の仰せがあった。按察大納言(源経実)は笏で挟んで打敷を取った(この打敷の面は白地の錦衣、袷が表、金銀銅の薄文があった)。続いて盤六本、見た目が美しい様々な料理が玉のように盛られていた。ご飯は白玉(の形?)に盛られていた。参議四人と蔵人頭二人がこれを取った(六位の蔵人らに伝えて之を授けた)。
宗輔が退き御汁物を取った。進んで折敷を置いた。続いて私が御酒の盞を取った(予め折敷を置き、私はただ盞を取って折敷を取らずに参じた。陪膳に盞をお渡しして、蓋を取って退いた。後で聞いた所では、諸卿が私に、折敷に置いて渡すべきだったと非難したようだ。この非難は全く適当ではない。その御酒盞の底に丁子を入れた。前例では?(折敷に)置かずに帰られたのだ。よって暫く寝殿南妻にてご意向を伺った。太政大臣(源雅実)の意向は「直ぐに用意せよ」との事だったのでお持ちした、)伊通は御銚子を持ち後ろにいた。但し入れずに持って帰った。
私が退出する時、法皇が仰るには、「院の御前の物を早く用意するよう行事に伝えよ」との事だった。これを顕頼に伝えた。陪膳右衛門督が弓箭・釼などを片付けた。老懸は未だ冠に付けられていた。笏を装束に挟み打敷を取って進んだ。紅梅織物の打敷の上に高坏を置き直した。打敷の面は綾物、様器は総じて六本で、実物などが盛られていた。経忠朝臣、行宗朝臣、敦宗朝臣、有賢朝臣、清隆朝臣、忠能朝臣らが役を勤めた。
頭弁雅兼が密かに非難して言う事には、「近衛次将軍らがこの役を勤めるべきである。この間に地久(役の者が)進み出て跪いた。膳を用意し終わって舞に立った。膳を供える間は警蹕を行わなかった。この後小要事が行われ、たちまちに退いていった」との事だった。公卿の座には勧杯が無かった。太政大臣と摂政の座席が狭かったためである。続けて奏舞が行われた。事が済む間に、殿上・五位らが東方から御遊具を取って役を勤める人々の前に置いた。笛(上皇)、筝(摂政)、琵琶(内大臣)、笙(雅定)、拍子(宗忠)、副音(通季、実能、宗輔)、篳篥(敦兼朝臣)、和琴(有賢朝臣)だった。これより前に掃部司が南階西腋に座を敷いて、召人はここに座ったとの事だった。この間、本院の引出の御馬三疋を、成通、重通、忠基が引いた。後縄? 近衛官が一両を廻らして中門から馬を引き連れていった。続けて新院(白河)引出物の御馬三疋、宗能朝臣・実衡・公発が引いた。続けて贈物、按察、治部卿、民部卿が北面に廻って受け取った。御手本御琵琶は錦褁に入っていた。御琴は褁に入っていた。事が済む間本院が様々な祿を与えた。摂政には織物・細長があった。太政大臣がこれより前に退出した。事が終わって早々に退出したので、公家院司から公卿八人が祿・白掛を賜った。
諸卿が退座した後、対の屋の代わりの建物の南面において、摂政(藤原忠通)、右大臣(藤原家忠)、内大臣(源有仁)が叙位について話し合いを行われた。その様子は、対代南廂の東側の一軒の北辺部分に菅圓座一枚が敷かれ、そこを摂政の座とされていた。南面部、その西南部に同じく圓座二枚が敷かれ、右大臣と内大臣の座とされていた。北側の東面は、摂政の座の前に一枚が敷かれ、そこを執筆参議の座とされていた。参議の座の東北部に切燈台一基を立てられた。蔵人等が圓座や切燈台を準備していた。摂政、右大臣、内大臣が順に着座した。続いて左大弁為隆(藤原為隆)をお呼びになり、為隆が着座した。次に(為隆は)実親をお呼びになった。五位蔵人実親(平実親)がやってきて簀子敷(=敷物)を敷いた。為隆が硯と紙を持って来いと仰ったので、(私は)柳の箱に(硯と紙を)盛り、その箱を持ち参った。(盛った紙は一巻だった。前例では二巻だった。失敗であった。)為隆は、この巻を取り叙位次第を巻き返した。(後に聞いたところでは、上皇(鳥羽上皇))が「尻付(=該当人物についての注)は付けた方がよいのではないか。」と仰ったところ、為隆は「前例では尻付はつけておりません。」と言ったそうだ。よって尻付は付けられなかった。)叙位の名簿を書き終わって、右大臣は内記を召し叙位を下付なさった。後に聞いたところでは、従三位に藤原経忠(新院(鳥羽上皇)の別当)で、正四位下に高階宗章(本院(白河法皇)の別当)であったそうだ。(上臈の別当二人である。顕重(源顕重)・有賢(源有賢)等の位階を超越した)。従四位下に藤原顕頼(弁官の上の師俊(源師俊)の位階を越した)。別紙には女の叙位が書かれていた。従三位に藤原公子(按察女房、藤原公実の娘)で、従四位下に藤原隆子(当今(崇徳天皇)の御乳母であり、宗俊朝臣(藤原宗俊)の妻である)、源任子(姫宮の御乳母の代わりで、子良圓の娘である)である。続けて書かれている二通の事(男の叙位の事と女の叙位の事=人事の内容)が書き終わって、諸卿が(南庭に)下り立った。御輦が南の階に連なって並んでいた。御輿には中引き(=几帳のとばり)があった。広い部屋であったために、寝殿に簀子敷を設置した。(崇徳が)皇后(待賢門院璋子)とお二人一緒に同じ輿に乗ることになったため、摂政以下は退下した。次将が一人昇殿し御簾を垂らした。格子を下ろさなかったという。数刻の後、主上が中引きの内に入りなさった。この間御輿の中から薫爐が落ちた。下官(私)は下馬して薫爐を取り、随身に持たせた。しばらくして上皇が大炊御門大路において御見物なさった。続いて(崇徳は)本路(来た道)を通って宮(内裏)にお帰りなさった。(その間、崇徳は御輿の中で)お休みに成られたため、格子を下ろした。宰相中将は剣璽を取り内侍に渡した。御輿が退いた後、下官(私)は急いで列に加わった。続いて名謁が行われた。従三位経忠(藤原経忠)が参議の上に加えられた。(経忠が私に)話して言うことには、「(鳥羽)上皇から御装束を賜り、それを着用しているのだ。模様が施されている有文の帯であった。」ということだ。
裏書に云く、
後に聞いたところでは、上皇の御座が置かれていた所に紫檀地兀子を立てたそうだ。下敷は赤地の錦であり、それらの物は大嘗会悠紀で使用するもので、前もって借りてあったものだった。皇后(皇嘉門院聖子)は末額を結び着御なさった。主上は御拝に白袷を用いられた。(崇徳が)新院を奉拝する時、(欠字)、新院本院の楽の間の御座は皆御拝の時に用いられた(ものを用いた)。(欠字)、採桑老は、康和のころに多資忠が山村吉貞のもとに参り殺害したため(書き下し通りだとこの訳だが、事件のことを考慮すると→多資忠のもとに山村吉貞が参ったため=殺害したため)、その後は京の舞人でこの曲(採桑老)を知る者はいない。しかし天王寺の舞所公定(藤原公定)はこの曲(採桑老)を伝習したとの噂があった。そこで去る十二月ごろに彼(藤原公定)を京都に呼び(他の舞人たちに)伝習させた。舊きを尋ねて新しきを知る。このことは聖代の恒典である。誰も知っている人がいないこの世の中で、何とか舞の形を探り当てて、採桑老を習得したのだろう。(彼は)装束黄の直衣を着ていた。ただし、竹葉を挿していないのは、どうであろうか。各々は故事を知らない者の所業である。黄色の上衣はひどく劣ったものであった。