『大乗院寺社雑事記』 文明九年七月廿九日条 解説

【概要】

・『大乗院寺社雑事記』は、奈良の興福寺大乗院門跡の尋尊(1430~1508)が記した日記。尋尊は関白一条兼良(1402~1481)の子で、記事は宝徳2年(1450)から永正5年(1508)までの50年以上に及ぶ(途中に欠損期間あり)。尋尊の筆まめな性格から、記事の内容はきわめて多岐に及び、室町時代後期の畿内周辺の政治・経済・社会・文化を知る上での基本史料。頻発する土一揆や大和の国人たちの動向、室町幕府の将軍・守護らや公家たちの動静などを克明に記録している他、応仁・文明の乱の状況についても、京都から伝え聞いた情報や大和国内への波及の状況なども詳しく記している。

・原漢文。『増補 続史料大成』に12巻本が収録。記主による自筆の原本は国立公文書館内閣文庫所蔵。なお、尋尊自身が記した「大乗院寺社雑事記」とは別に、尋尊が歴代の門主(住職)の日記などをもとに編纂した「大乗院日記目録」があり、正長の土一揆について「日本開白以来、土民の蜂起これ初めなり」と記した、教科書にもよく掲載されて印象的な記述は、後者に含まれる記事である(『増補 続史料大成』第12巻に収録)。

【授業で使う際のポイント】

・日野富子は、永享12年(1440)、日野政光の娘として生まれ、16歳になった康正元年(1455)、足利義政のもとに嫁いだ。義政には既に側室が複数いたようであるが、足利将軍家は代々、日野家から正室を迎えており、富子も正室として義政に迎え入れられた。日野家の家格は、朝廷において弁官を経て中納言・大納言に至る「名家」であったが、後光厳天皇や後小松天皇との関係や、足利将軍家との関係から次第に権勢を強め、富子の兄・勝光は、その家格からは異例の内大臣・左大臣まで昇進して、その権勢を揶揄されて「押大臣」などとも評された。一方、本史料からもうかがえるように、富子と同時代の日野家の経済状況がきわめて良好であり、朝廷や室町幕府の経済にも大きな影響力を持っていたことが知られる。日野家は、京都市中の四条町・六角町という繁華なエリアに所領を展開し、酒屋・土倉といった商工業者と日常的に交際していたことも、そうした経済状況に大いに貢献していたとみられる。

・この史料は、前半と後半でその内容が一見大きく異なるため、やや解釈の難しい史料ではあるが、富子の裕福ぶりをうかがわせる史料としてよく注目されるのは後半部分である。いずれにせよ、10年続いた応仁・文明の乱終盤期の史料であり、後述するように、その終戦の要因ともなったとの指摘もある出来事について記された史料である。

・前半部分の冒頭は、本史料の記主である興福寺大乗院の尋尊が、身の回りでこの日にあった出来事について記した部分である。連歌師の宗祇(1421~1502)が都から奈良に下向してきて、室町殿(義政)と御台(富子)が禁裏(宮中)の歌合で詠まれた歌について、点を打ったり、判詞を付けた(詠まれた歌に対する評価や優劣を述べた)ため、それを持参して成就院までやってきた。「惣じて京都の儀は、毎時その道なく、御運今の如くんば嘆き入るの由と云々」という一文の解釈がやや難解だが、少し後の「当年中、無為の儀これ無くば、おのおの逐電すべきの支度」という一文と関わらせて解釈するとすれば、「御運」が現状の通り続くとすれば、歎き入る=勘弁してもらいたい、というほどの意味ではないだろうか。「御運」の解釈が難解だが、直前の「道なく」との関わりで、ここでは通行・運行などの意味と捉えておきたい。なお、杉原賢盛(1418~1486)は、足利義政の近習のひとりで富子の家の()(らい)(家司/家政をつかさどる家人)でもあり、また宗伊と名乗る連歌師でもあった。その作歌は『新撰菟玖波集』・『竹林抄』に入集している。

・「御台、一天の御計らいの間」で始まる後半は、急に話題が変わる印象だが、杉原賢盛ら「奉公方の者ども」の困窮ぶりと比べた「御台」=日野富子の富裕ぶりを対比的に述べたものと理解しておきたい。「一天の御計らいの間」も解釈のしどころではあるが、おおむね現代語訳した通りに解釈して大きな問題はなかろう。応仁・文明の乱が継続して戦費がかさむ中、「陣中の大名・小名」たちが、戦費調達のため富子から「利平を以て」すなわち利子を付けて「借用す」という部分や、それに続く「ただ一天下の料足は、この御方にこれ有る様に見え畢んぬ」という部分が、富子の「悪女」ぶりや「富裕」ぶりを強調する言説の根拠ともなってきたが、近年、こうした見方は再検討が進んでいる。

・すなわち、寛正6年(1465)に誕生した義政嫡男の義尚が9歳となった文明5年(1473)、元服と同時に第9代将軍に就任し、富子の兄・日野勝光が「新将軍の代として、日野前内府((勝光))、一円にその沙汰を致し(日野勝光が新将軍義尚の代理として、政務の一切を取り仕切った)」という状況となったが、その勝光が文明8年(1476)に没すると、まだ年若い将軍義尚を後見するのは富子以外になく、富子は天皇の譲位問題や公家・寺社関係の訴訟や人事などに関与することとなった。しかし、富子の夫・義政も、将軍職こそ義尚に譲ったとは言え、義尚の「御判始」・「評定始」(将軍としての権限を行使する御判御教書の最初の発給や政務開始の儀式)は行われておらず、相変わらず「室町殿」と呼ばれて政務を継続している。これは、社会一般的に成人となる年齢とされた15歳に満たない者の花押(サイン)には効力がないとされていたためで、義政は義尚が15歳となるまで、自身の花押を据えて御判御教書の発給を代行した。そのため、富子による執政は、そうした室町殿の権限を超越するほどのものではなく、将軍の御判御教書に代替するような公文書を発給した事実も一切ないとされている。富子の執政といわれるものは、あくまでも幼少の将軍の生母としての後見として、きわめて限局的なものであったの理解が広がってきている。

・また、最終段の「近日また米倉の事、これを仰せ付けらる。御商いあるべきの由、御支度」という部分も、従来は富子が戦乱のさなか、米商売によって私腹を肥やそうとしていたなどというように解釈されることもあったが、「仰せ付けらる」という表現から、米倉の設置は、将軍あるいは義政から命じられて取り組んだことであって、政策実施の主体性はあくまでも富子にあったわけではなかったと考えられる。その上でこの米倉の設置は、「大儀の米共なりと云々」と記されている点も重要で、応仁・文明の乱の長期化というこの時期の時代背景をふまえて、「大儀」とは何を指すか、授業で生徒たちに考えさせたいところである。ひとつの解釈として、「大儀」を「大義」の当て字と考えて、戦争終結という「大義」と考えることも可能なのではないだろうか。つまり、この「米倉」は、戦争を終結させ、戦陣にある軍勢を帰国させるための兵粮米を収蔵するための倉とは捉えられないだろうか。そうだとすれば、富子による米倉の設置は、まさに長きにわたった応仁・文明の乱を終結させるための準備であったと考えることも可能であろう。

・なお、末尾で富子が千貫もの大金を貸している「畠山左衛門佐」であるが、能登の守護で西軍(山名方。但し山名宗全は既に死去)に属していた畠山(よし)(むね)ではないかとの説が有力である。かつては、この人物を東軍の畠山義就に比定して、富子が西軍にも東軍にも金銭を貸す「死の商人」であるような言説もみられたが、畠山義就は「右衛門佐」であって、この史料にある「左衛門佐」ではない。史料は厳密に読み解いていかねばならない。なお、近年では、尋尊はよく『大乗院寺社雑事記』の中で、畠山左衛門督政長(東軍)のことを誤って「左衛門佐」と書くことがあったことから、ここでもこれを誤記とみなして、これを政長に比定する見解も示されている。                               (作成:高木徳郎)

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