●現代語訳
三日己丑 夜明け頃御所に参った。しばらくして出発した。□を取り(高野)山を登った。[政所から中院御所に到着なさった事。]高野(山)の鳥居の前で松明を消した。本院は御輿に乗っていた。新院は御馬に乗っていた。山が険しく□(寒さ?)冴え、落馬の輩□□新院は御馬に乗っていた(=高野山登山の険しい山道の中、寒さも厳しく、落馬する者も現れた。そのような中で新院は馬に乗っていた。?)。左武衞は、白葦毛の馬に乗っていた。一度も(白葦毛の馬の)毛に泥がつかなかった。(それは左武衞が馬から)下りたり上ったりする間ごとに、人の(左武衞の馬を)汚さないようにとの用心が有ったからである。馬が優れていたからではない。善い行いの始まりは、ことさらに(本院・新院の)御心に叶うことであった。笠木の借屋で、長吏の権僧正が破子(=食器)を供した。本院の御料(=食器)は蒔絵の御手筥□だった。新院の御料(=食器)は使い古された蒔絵の御料(=郁食器)だった。公卿・侍臣の料(=食器)は皆檜(=生地)の食器だった。本院が先ず席にお着きになった。
(本院は)新院がいらっしゃるまでの間、食事の席で暫く休息なさった。(新院に)いらっしゃってくださるように申し上げた。(それを受けて新院は)先に行きなさった。経忠卿以下が食事の席に着いた。私が食事の手はずを整えた。(本院/新院が)僧・御随身等に酒肴を持ってくるようにお命じになった。立ちながら酒肴を差し出した。(食事を終えて)出発した。道がうねうね曲がりくねっていて、さらに坂道であるところで御輿を下ろした。前駈等も此の所で下馬した。藁履きを履いて(登山しやすいように)杖を取った。新院もまた此の所で藁履きをお履きになった。だいたい殿上・侍臣以下、雅康朝臣の外は皆すべて歩きであった。付き人らは皆等しく歩きだった。「召次は、(この場所に)留めておき、馬に乗っている人や集団がいたら追い払え。」という命令だった。巳の始め(=午前九時頃)に中院御所に到着された。人々は足を洗って(山道の汚れを落とし)御所に参った。今夜雨が降った。名山というのは、人が大きな声で話している時に必ず雨が降るものであるらしい。ややあって天気は快晴となった。□□成悦(うれしい?)、
投稿者: t-takagi
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『長秋記』大治二年十一月三日条 現代語訳
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『長秋記』大治二年十一月三日条 読み下し文
●読み下し文
三日己丑 鶏鳴御所に参る、やや久しくして出御す、□を取り山を攀づ、[政所より御中院御所に着す事、]高野の鳥居の前において松火を消す、本院は御輿、新院は御馬、山險しく□(寒さ?)冴え落馬の輩□□新院御馬に乗る所、左武衞、白葦毛なり、一度も泥無き事、下り上る間ずつ人の用心有るがごときなり、是馬の駿にあらず、宥善の開發、ことさらに御意に叶ふなり、笠木の借屋において、長吏の権僧正破子を供ふ、本院の御料は蒔絵御手筥□、新院の御料は蒔絵儡子、公卿・侍臣の料は皆檜の破子なり、本院先ず着御す、
[新院]御する間、此の所において暫く休息す、昇らしめ給ふべきの由申し置く、先ず行き御ふ、経忠卿以下破子に着す、下官沙汰を召す、僧・御随身等酒肴を賜ふべきの由召し仰す、立ちながら之を羞める、乃ち進發す、盤折坂本において御輿を留む、前駈等此の所において下馬す、藁履きを着し杖を取る、新院又此の所において藁履きを着し給ふ、凡そ殿上・侍臣以下、雅康朝臣の外皆悉く歩行す、人共に従ひ等しく同じく歩行す、召次を留め、騎馬有らば追い下げよと云々、巳の始め中院御所に着御す、人々足を洗ひ御所に参る、今夜雨下る、名山の例、人高聲する時必ず雨降ると云々、幾程を経ず天顔快晴、□□悦びと成す、 -
『長秋記』天治元年正月五日条 〇参考 朝覲行幸の儀式次第
●朝覲行幸の儀式次第
以下は、『朝覲行幸次第草』と『朝期覲行幸次第』から作成した。以上の二史料については、太田克也・藤原重雄「宮内庁書陵部所蔵九条家本『朝覲行幸次第草』・『朝覲行幸次第』―藤原忠通『玉林』佚文拾遺―」を参照のこと。
➀定刻に公卿たちが陣の座に集まる
→②関白(摂政)が殿上で雑事を行う
→③職(蔵人ヵ)が日時勘文を見る
→④関白(摂政)も見て、その後、行事を担当する上卿に渡す→⑤行幸の間、内裏の留守番をする人を呼ぶ
→⑥衛府の公卿以下が弓箭を所持する
→⑦天皇が南殿にいらっしゃる
→⑧天皇は広庇・長橋(清涼殿の東南隅から紫宸殿に通じる橋)を通って紫宸殿の北西にある北面戸から(北庇に)入って、御帳台の後戸でしばらく待つ
→⑨草薙の剣を持った内侍が御帳台の後戸から、御帳台の東を通って御帳の前である母屋東の南頭に立つ
→⑩八尺瓊勾玉を持った内侍が、⑨の内侍と同じ戸から御帳台に入り、御帳台の西を通って御帳台前の南頭に立つ
→⑪天皇は⑨⑩の内侍が利用したのと同じ戸から母屋に入って、御帳台西の間中央に立つ
→⑫近衛が陣を引く
→⑬陰陽師による反閇が紫宸殿で実施される・天皇は御帳西南の柱を通って御帳台の前に立つ
→⑭右近衛次将が東に渡る
→⑮公卿が南庭に並ぶ
→⑯闈司(鍵の管理や出納司る職)が奏上する
→⑰少納言が鈴奏する
→⑱大刀と契を辛櫃から出して担ぐ
→⑲御輿を寄せる
→⑳上﨟の次将が御輿の戸を開き、草薙の剣を御輿内に安置する→⑳天皇が御輿に乗る
→㉑次将が八尺瓊勾玉の箱を御輿中に安置する
→㉑⑳の時関白(摂政)は、南庇を経て東階に降り靴を履き、しばらく軒廊・南庭に立つ
→㉒参加する公卿は前行して騎馬する
→㉓御輿がようやく進行する→㉓御輿が紫宸殿を出る
→㉔関白(摂政)は左衛門陣の外で騎馬する
→㉔公卿は御輿の担ぎ手の後ろ・殿上人の前に仕える
→㉕御輿が女院の在前に到着する
→㉖最初に公卿が馬から降りて、殿上屏風の前に並ぶ
→㉖大将が馬から降りて、門の内に左右に立つ
→㉗左兵衛の陣が㉖と同じ門の南脇に並ぶ
→㉘関白(摂政)が門の辺りで馬から降りる
→㉙使の院司である公卿が、行幸してきた旨を奏上する
→㉚㉙のとき楽屋で乱声を発する
→㉛関白(摂政)が進む
→㉜御輿を進行させ、中門の許に据える→上﨟の次将が参進して、御輿の戸を開き草薙の剣を取る
→㉝天皇が御輿から降りる
→㉞天皇が御休所に入る
→㉟公卿が殿上に着いた後、雑人を払い中門を閇じる
→㊱公卿の院司が敷物を敷く
→㊱上皇(法皇)が御母屋に着座する
→㊲天皇が御休所から出御する
→㊳天皇が御拝する
→㊴天皇が御休所に還御する
→㊵上皇(法皇)が入御する
→㊶寝殿の装飾を改める
→㊷近衛陣胡床
→㊸天皇が再び寝殿母屋簾中に渡御する
→㊹太閤と摂政が簀子敷の円座に着く
→㊺蔵人頭に諸卿を呼び出させる
→㊻諸卿が参上し、御前の円座に着く
→㊼関白(摂政)が楽行事に命令する
→㊽乱声する
→㊾鉾を振る
→㊿左右近衛が音楽を奏で、舞を舞う
→51:勧盃
→52:天皇に御膳を供える
→53:舞の間、舞人・楽人に対する勧賞が命じられる
→54:暗くなると灯を点す
→55:中間が御儀に入る
→56:舞が終わり、胡坐の次将が会場から退く
→57:管弦の準備をする
→58:管弦のため招集された殿上人を呼び出す→招集された殿上人の座を敷く
→59:管弦をする
→60御贈り物賜る
→61:管弦が終わり、蔵人頭が禄を関白(摂政)以下に与える
→62:天皇が入御する
→63:御膳を撤収する
→64:院司の賞を命じられる
→65:関白(摂政)が宿所に下る
→66天皇が還御する -
『長秋記』天治元年正月五日条 語釈
- 朝覲行幸:天皇が年の初めに太上天皇・皇太后の宮に行幸し、新年の礼をとり、あいさつに行くこと。朝覲とは、『周礼』春官、大宗伯に「春見曰朝、(中略)秋見曰覲」とある。その行幸は儀衛を厳にし、御所に近づくと警蹕を止め、中門の外より天皇は御輿を下りるのを原則とする。嵯峨天皇が即位四ヵ月目の大同四年(八〇九)八月に行なったのを文献上の初見とするが、正月の朝覲行幸は仁明天皇承和元年(八三四)正月二日、淳和院に太上天皇を拝覲したのが最初である。太上天皇は喜んで迎え、おのおの、中庭で拝舞し、ともに昇殿し、群臣に酒を賜い、音楽が奏せられるなど、華やかな宴が行われた。左右近衛府がさらに舞を奏したのち、上皇は天皇に鷹などを贈物として献上した。天皇が帰るとき、太上天皇は相送りて南の屏の下まで行ったという。(―中略―)具体的な式次第は以下のごとくである。正月二日・三日・四日に行うのを原則としたが、吉日をえらぶ場合もある。天皇は后宮近辺に警蹕を停め、中門の外で御輿を下りる。近衛中将が神璽を持ち、輦戸を開き御剣を取り、しばらく沓脱の下で天皇が輦を下りるのを待ち、天皇が進み寄ると沓脱を昇り次将が先行するのを故実とする。早速昇殿して御剣は左を先にし、璽は右を後にし、上臈の将が御剣を内侍に授く。王卿は魚袋を着し、天皇が上皇ならびに皇后の御前に参り拝賀の礼をする。公卿は寝殿の御前の座に候し、一部の公卿は簀子、渡殿の座に二行に並ぶ。神祇官は門前で大麻を献ずる。このことは、後三条天皇以後行われなくなったという。雅楽寮は音楽を奏し、天皇は御靴を着す。宴があり、上皇が今上に単衣を賜うことなども宇多上皇から醍醐天皇への場合をはじめとして、しばしば行われた。天皇が上皇・法皇と二院または三院に行幸する場合もある。正月の朝覲行幸のほかに、元服後の朝覲行幸もある。(『国史』)
- 二条殿:平安京二条南東洞院東に営まれた藤原教通の邸宅。教通は万寿二年(一〇二五)ごろから二条殿の造営に着手し、同四年秋に移徙、以後ここを本所とした。教通が「大二条関白」と称されるのはこのことによる。その後二条殿は、康平元年(一〇五八)・治暦四年(一〇六八)の二度の火災に見舞われるが、そのつど再建され、その間後朱雀天皇の皇居や後三条上皇の御所としてたびたび利用された。教通が没すると、同殿は彼の息男信長の邸となり、さらに十一世紀末には信長の女婿後二条関白師通の本所となっている。しかし、師通の死後二条殿は次第に荒廃し、保安元年(一一二〇)正月二十九日の火災では完全に焼失した。そして、この火災を契機に同殿は白河上皇領となったようで、保安四年(天治元年の前年―金久保注―)六月十日には鳥羽上皇の御所がここに新造されている。この御所は、その後長承二年(一一三三)から崇徳天皇の皇居となっていたが、保延四年(一一三八)二月二十四日に焼失した。なお、鎌倉時代に入ると、ここに後鳥羽上皇御所や二条高倉内裏が建設されている。(『国史』)
- 駕丁(駕籠舁):駕籠をかつぐことを業としている人。かごや。おろせ。駕籠遣。駕丁。
- 警蹕(けいひつ):声をかけてまわりをいましめ、先払いをすること。天皇の出入の時、貴人の通行の時、あるいは神事の時など、下を向いて、「おお」「しし」「おし」「おしおし」などと言ったもの。また、その声。けいひち。みさきおい。
- 乱声:雅楽の舞楽で用いられる笛の調べの名称。新楽乱声(振鉾の時に奏する)、古楽乱声(迦陵頻・抜頭などの出に奏する)、安摩乱声(安摩・二舞および陵王の入りなどに奏する)など。古くは、行幸の出御・入御、相撲・競馬などの勝負、集会、その他のおりに奏された。らんせい。らんぞう。
- 璽:玉に刻んだ印形。特に、中国では秦以降、天子の用いるもの。日本では天皇の用いる印章をいう。御璽。天子のしるしである三種の神器。特に、八尺瓊曲玉。
- 龍頭鷁首:平安時代、園遊などの折、貴人の御座船とし、または伶人などを乗せて楽を奏させる船。二隻を一対とし、一隻の船首に龍の形、他の一隻に鷁の形の彫物をつけたり、その形を描いたりしたもの。特に平安時代から室町時代にかけて、皇室・貴族・社寺の行事などの際、泉池や河川で船楽を奏するために重用され、ふつう船差四人、楽人または舞人一〇人内外を乗せ、時には貴族の船遊びにも用いられた。りょうとうげきす。りょうとうげいす。りゅうとうげきしゅ。りゅうずやくす。
- 棹郎:船頭。船をこぐ人。
- 蛮絵の袍:武官の随身用の褐衣(かちえ)の一種。当色の縹に染めた布の欠腋の袍で、蛮絵という獅子や熊、鴛などの円文を板に彫って墨摺りにし、威容をととのえて蛮絵の袍とよび、晴の出行の際に供奉する召具の装束にした。(『国史』)
- 狛鉾(高麗鉾):高麗から伝来したほこ。また、高麗風のほこ。
- 遣水:平安時代の寝殿造において、外から引き入れて庭園につくった流れ。当時の物語などでは、その流れを引いてつくった池泉のことも遣水とよんでいる。(『日本大百科事典』)
- 近仗:宮中の近くで、その警衛にあたる者。近衛の武官。
- 居筥:法会を行なう場所にすえ置く長方形の木製の箱。外側に薄い金属板を張り、内面は錦や綾の切れ、または紙を張ったもので蓋はない。法会の時、導師の僧の左脇机に置き、表白、次第、経巻、説教の原稿などを入れるのに用いる。
- 帛袷:置畳の上に用いる白絹の裏付きの敷物。四方に鎮子を置き、天皇の御拝の座とする。
- 鎮子:調度品の一つ。室内の敷物・帷帳・掛軸などが風であおられたり、飛び散ったりしないようにおさえるおもし。風鎮や文鎮など。ちんす。
- 拝舞:朝廷などで行なわれる儀式で祝意、謝意などを表わす礼の形式。まず再拝し、立ったまま上体を前屈して左右を見、これにあわせて袖に手をそえて左右に振り、次にひざまずいて左右を見、そのまま一揖、さらに立って再拝するもの。左右を見るにあたって、天皇は右左右、臣下は左右左の順を追うので、見る際の作法を左右左という。天皇では朝覲の行幸、臣下では叙位・任官または祿を賜わった時などに行なう。はいむ。舞踏。
- 脇息:すわった時にひじを掛け、からだをもたせかけて休息するために使う道具。おしまずき。ひじかけ。
- 三方:現在の宮内庁楽部を構成している三系統の楽人の旧称。宮廷直属である京都方(京方、北京方)の多、豊(ぶんの=豊原)、山井(大神)、安倍の諸家、奈良興福寺所属である南都方(奈良方)の上、奥、芝、辻、窪、久保の諸家、大阪四天王寺所属である天王寺方(大阪方)の薗、林、東儀、岡の諸家がある。三方の楽人。
〇人名
- 摂政:藤原忠通のこと。当時、二十八歳。
- 大納言経実:藤原経実のこと。当時、正二位行大納言兼按察使、五十七歳。藤原師実の子。ちなみに師実は、藤原頼通の子である。
- 右宰相中将宗輔:平安時代後期の公卿。権大納言藤原宗俊の三男。母は左大臣源俊房の女。没年から逆算すると、承暦元年(一〇七七)の誕生となる。寛治元年(一〇八七)従五位下に叙され、近衛少将・同中将を経て蔵人頭に補され、保安三年(一一二二)参議に昇った。以後諸官を歴任して、保元元年(一一五六)右大臣に進み、ついに従一位太政大臣に至ったが、永暦元年(一一六〇)上表して官を辞し、応保二年(一一六二)正月二十七日出家、同三十日、八十六歳の天寿を全うした。蜂を飼って愛玩したので、蜂飼大臣とあだ名された(『十訓抄』)(以上『国史』)。当時、正四位下左中将兼近江権守、四十八歳。
- 多忠方:平安時代後期の雅楽家。応徳二年(一〇八五)京都に生まる。雅楽の流派の一つ、京都方(がた)に属する多家の出身。父資忠の第三子。父と長兄節方が殺されたため、多家専門の神楽歌や舞楽曲が断絶しそうになったが、資忠から神楽を伝授されていた堀河天皇が、忠方に伝え、宸筆の神楽譜を与えられたという。同じく多家の舞胡飲酒は資忠の伯父政資から伝授されていた源雅実(一説に子の雅定)より返し伝えられた。雅楽の一者たること三十三年に及ぶ。
- 内府:内大臣であった源有仁。当時、正二位右大将、二十二歳。
- 権右中弁顕頼:平安時代後期の公卿。権中納言藤原顕隆の長男。母は越後守藤原季綱の女、鳥羽天皇の乳母悦子(母を美濃守源頼綱の女とする異伝あり)。没年から逆算すると、嘉保元年(一〇九四)の誕生となる。天仁元年(一一〇八)従五位下に叙されて以来、出雲・丹後・丹波の守を歴任する一方、左衛門権佐・右少弁・右中弁・蔵人頭を経て、天承元年(一一三一)参議に昇り,さらに権中納言に進み、大宰権帥を兼ねたが、永治元年(一一四一)両官を辞し、民部卿に任ぜられ、ついで正二位に叙された。その間,鳥羽上皇の腹心として「内外権を執り、際会人に超ゆ」(原漢文)と評され(『本朝新修往生伝』)、公卿を辞した後も、重要な議事には参与した。久安四年(一一四八)正月三日、病により出家、五日没した。十三日、嵯峨野常磐杜の西北に埋葬された(『本朝世紀』)。歳五十五。その第宅、九条高倉第にちなんで九条民部卿とよばれ、その日記は『九民記』と称された(以上、『国史』)。当時、従四位下右中弁、三十一歳。
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『長秋記』天治元年正月五日条 現代語訳
●現代語訳
正月
五日 晴。(私は)午前八時頃に参内した。早くに(崇徳天皇は、)紫宸殿をご出発なさった。今回は初めて、(母后との)同輿の儀が無かったそうだ。(天皇は)烏丸から北に行き、土御門で東に曲がり、東洞院から南に向かって二条殿西門に到着なさった。御供の公卿や諸司等の多くは、次第に参加してきた。御輿は門の外に停めた。しかし摂政(=藤原忠通)の命令により庭の中(=外門と中門の間の庭)に入れた。〈前例では門外に停めていた。〉御輿を担いだ者たちはかけ声を止めた。神官は御麻を供えた。この間に公卿は、殿上前の屏風の南幔の外に東を上座にして南向きに並んだ。摂政は門内の南脇にお立ちになった。左右の大将はその東に立った。〈左大将が北側であった。〉その時、院別当按察大納言経実卿が列を離れて南に進んだ。西に向かって挨拶し、幕を張った門から中門を通って、天皇がご到着なさった旨を(白河法皇にヵ)申した。両楽は乱声を演奏した。按察は元の場所に戻った。諸司は幕の入り口を開けた。天皇が(庭から中門に)お入りになった。中門の内から(西)対代西庇の南向戸の近くに至った。敷物を道に敷いた。御輿を中門内に東向で安置した。
左右将軍は中門の内に入り跪いた。右宰相中将宗輔は靴を脱いで進み、御輿の戸を開いた。草薙の剣を取って(天皇の)前に進んだ。(その時、)錦道は踏まなかった。(天皇の)西側に伺候した。次に摂政は、主上(=崇徳天皇)を抱きかかえ、(御休所の)長押の上(≒入口)に立たせ申し上げた。私もまた靴を脱ぎ進んで、八尺瓊勾玉を取り、天皇の御後ろの錦道の東に伺候した。天皇が(御休所)お入りになった後、内侍に(八尺瓊勾玉を)預けて退いた。弓を取って中門廊の戸から出た。靴を持ちながら弓を取った。この時、乱声の演奏が終わった。龍頭鷁首を拵えた二船が中嶋の南からやってきて、美しい音色を演奏した。左近将監狛光則は龍頭を拵えた船に乗り舞った。右近将監多忠方は鷁首を拵えた船に乗り、同じように舞った。船頭の童は蛮絵の袍を着ていた。(船は)数回ほど回遊した後、楽屋の南に着岸した。船を降り幄に入った。〈この楽屋は、南庭の池の中心にあった。(床として)板を構えその上に砂を敷いていた。東・西・南にそれぞれ朱の柵を設けた。その上に纐纈染で約二十一メートルの幕を張った。その北中央に太鼓を一つ設置した。楽屋の東西に鉦鼓を立て、その前左右に鉾を置いた。幕の北西に二つの狛鉾と佐保太鼓を設置した。池から北に向かって板橋を二つ架けた。(楽屋の)東側は左近衛の警備の者が配備していた東辺りであり、左舞はここから参上した。西側は池道に当たり右舞はここから参上した。〉
音楽が終わった。この時公卿たちは殿上に控えていた。内大臣は呼び出され(白河)法皇の御許に参上した。(内大臣は)南の方から御簾の中に入った。居箱を取って、(白河の)御座の右方に置いて退こうとした時、上皇(白河法皇ヵ)は庇の西方から簾中に着座した。この御座は寝殿中央の母屋に設置されていた。(法皇の)御座が定まった後、内大臣はその場を退いた。摂政は参進して敷物を取り、主上の御座の上に敷いた。〈この御座は(寝殿)中央の間の庇にあった。敷物は母屋の西にあった屏風に掛けられていた。重石は左屏風の許にあった。摂政は笏を挟んで、敷物をお敷きになった。敷き終わると退いて、重石を取ってまた置きなさった。このおもしは犀の形で四つあった。両手で重石をお取りになった。(主上の)御座の四隅に東と西向きに置かれた。〉次に摂政が法皇のお気持ちを察し、天皇のもとに参った。(摂政は天皇に、今から法皇の許に)渡御しますと申した。主上は対代の東から出て、〈透渡殿に着いた時、摂政は裾を取り、(天皇に)お仕えなさった。〉寝殿西庇の南一間からお昇りになった。〈戸の脇で御笏を(天皇に)お渡しした。頭中将忠宗は御笏を予め用意して置いておいた。(天皇は)ゆっくりと東に行き御座に昇った。北に向き拝舞した。〈略式であった。〉法皇は感涙し涙を拭いなさっていた。儀礼が終わって(天皇は御休所に)還御した。
法皇が(お控えの間)いらっしゃった。法服は白単の袈裟をお召しになっていた。内大臣は御簾を掲げなさった。次に内大臣は、居箱を取りお控えの間に入れた。置き終わると対代の南面に退きなさった。次に権右中弁顕頼が(母屋=拝舞の会場に)参り、法皇の御座を撤収した。そののち、西に面した御簾の中にひじ掛けを入れた。座布団・繧繝染の端畳(の事)。次に三つの役職を兼ねる殿上人五位らは南に面した簀子敷を経て東に向かった。繧繝染の端畳二帖をとって、法皇の御座であった所に(改めて)敷いた。顕頼は東京錦の座布団を取りその上に敷いた。次に新院が寝殿北庇の西向きの戸から出た。西庇の南側に入るとき、母屋から東に行き着座しなさった。〈南に向いていた。通季卿は御供として(新院の許に)控えていた。〉次に摂政が、(会場の天皇御座の)敷物や重石等を撤収し、元のように新しい敷物を敷いた。〈これらは元々御屏風に掛けられていた。(私からは)遠くて見えなかった。(後でほかの人にこの様子を)尋ねてみよう。〉次に(鳥羽の)御旨によって、主上が御拝に渡御した。その儀は前と同じであった。(終わって天皇は、御休所に)還御した。
続いて、上皇(鳥羽上皇)が(御休所に)入御された。更に本の役人らが(会場に)参入した。上皇の御座を片付け、清隆朝臣・顕頼が母屋中央の間に紫壇地兀子を立てた。他の五位らが庇・御簾を垂れかけた。主上(崇徳天皇)が渡御し母后(待賢門院璋子)に奉拝なさった。その間の事を(私は)詳しく分からない。還御された後に聞いた所では、上皇の御座が置かれていた所に紫壇地兀子を立てた。下敷は赤地の錦だった。これは大嘗悠紀で使用するもので、借り渡されたものだった。皇后(皇嘉門院聖子)は末額を結び着御なさった。主上は御拝に白袷を用いられた。新院奉拝の時、主上の御座の帛袷等を片付けて本所に置いた。上皇の御座は繧繝二枚茵などであった。本の御座を敷いたのだろうとの事だった。上皇が(御休所から)出御された。法皇(白河法皇)は御簾の内にお出ましになった。(法皇の)御旨により上が渡御した。初めの道と同じだった。左宰相中将宗輔朝臣が剣を取り前行した。御座を東の方に置いた。
主上が御座に定まった(御笏をお持ちになった)。私は璽を取り(主上の)後ろに控えた。御座定の後、御釼を西南に置き(この時内侍が釼・璽を持ち西対の御簾中に安置した)、太政大臣(源雅実)は東方から出て上皇御前の圓座に着した。
摂政(藤原忠通)も天皇の側に留まり御前の圓座に控えなさった。御出の前に左右近が胡床を立てた。次将らは靴を着用して弓箭を帯びていたという。続けて摂政が頭右大弁雅兼朝臣を呼んだ。諸卿を呼び寄せよとの意向を受け、雅兼は退出して殿上の戸外に控えた。頭を振り返ったが、人々は応じなかった。戸内で右膝を折り「お呼びです」と言うべきだったのだ。(諸卿とは)右大臣、内大臣、大納言経実、能実、宗忠、能俊、忠教、中納言顕雅、実隆、通季、実行、顕隆、雅定、実能、参議宗輔、為隆、伊通、そして私達であった。この間に楽行事に命が下された。左は成通、右は重通(第二の座に着する者である)。勅命を承ってそれぞれが楽屋に向かった。左右共に乱声を演奏したたという。この間に按察大納言参議などが、早く東に廻って主上御膳を用意せよと言った。最初に公卿の衡重を用意したという。実は、早く主上の御膳を用意するよう院の仰せがあった。按察大納言(源経実)は笏で挟んで打敷を取った(この打敷の面は白地の錦衣、袷が表、金銀銅の薄文があった)。続いて盤六本、見た目が美しい様々な料理が玉のように盛られていた。ご飯は白玉(の形?)に盛られていた。参議四人と蔵人頭二人がこれを取った(六位の蔵人らに伝えて之を授けた)。
宗輔が退き御汁物を取った。進んで折敷を置いた。続いて私が御酒の盞を取った(予め折敷を置き、私はただ盞を取って折敷を取らずに参じた。陪膳に盞をお渡しして、蓋を取って退いた。後で聞いた所では、諸卿が私に、折敷に置いて渡すべきだったと非難したようだ。この非難は全く適当ではない。その御酒盞の底に丁子を入れた。前例では?(折敷に)置かずに帰られたのだ。よって暫く寝殿南妻にてご意向を伺った。太政大臣(源雅実)の意向は「直ぐに用意せよ」との事だったのでお持ちした、)伊通は御銚子を持ち後ろにいた。但し入れずに持って帰った。
私が退出する時、法皇が仰るには、「院の御前の物を早く用意するよう行事に伝えよ」との事だった。これを顕頼に伝えた。陪膳右衛門督が弓箭・釼などを片付けた。老懸は未だ冠に付けられていた。笏を装束に挟み打敷を取って進んだ。紅梅織物の打敷の上に高坏を置き直した。打敷の面は綾物、様器は総じて六本で、実物などが盛られていた。経忠朝臣、行宗朝臣、敦宗朝臣、有賢朝臣、清隆朝臣、忠能朝臣らが役を勤めた。
頭弁雅兼が密かに非難して言う事には、「近衛次将軍らがこの役を勤めるべきである。この間に地久(役の者が)進み出て跪いた。膳を用意し終わって舞に立った。膳を供える間は警蹕を行わなかった。この後小要事が行われ、たちまちに退いていった」との事だった。公卿の座には勧杯が無かった。太政大臣と摂政の座席が狭かったためである。続けて奏舞が行われた。事が済む間に、殿上・五位らが東方から御遊具を取って役を勤める人々の前に置いた。笛(上皇)、筝(摂政)、琵琶(内大臣)、笙(雅定)、拍子(宗忠)、副音(通季、実能、宗輔)、篳篥(敦兼朝臣)、和琴(有賢朝臣)だった。これより前に掃部司が南階西腋に座を敷いて、召人はここに座ったとの事だった。この間、本院の引出の御馬三疋を、成通、重通、忠基が引いた。後縄? 近衛官が一両を廻らして中門から馬を引き連れていった。続けて新院(白河)引出物の御馬三疋、宗能朝臣・実衡・公発が引いた。続けて贈物、按察、治部卿、民部卿が北面に廻って受け取った。御手本御琵琶は錦褁に入っていた。御琴は褁に入っていた。事が済む間本院が様々な祿を与えた。摂政には織物・細長があった。太政大臣がこれより前に退出した。事が終わって早々に退出したので、公家院司から公卿八人が祿・白掛を賜った。
諸卿が退座した後、対の屋の代わりの建物の南面において、摂政(藤原忠通)、右大臣(藤原家忠)、内大臣(源有仁)が叙位について話し合いを行われた。その様子は、対代南廂の東側の一軒の北辺部分に菅圓座一枚が敷かれ、そこを摂政の座とされていた。南面部、その西南部に同じく圓座二枚が敷かれ、右大臣と内大臣の座とされていた。北側の東面は、摂政の座の前に一枚が敷かれ、そこを執筆参議の座とされていた。参議の座の東北部に切燈台一基を立てられた。蔵人等が圓座や切燈台を準備していた。摂政、右大臣、内大臣が順に着座した。続いて左大弁為隆(藤原為隆)をお呼びになり、為隆が着座した。次に(為隆は)実親をお呼びになった。五位蔵人実親(平実親)がやってきて簀子敷(=敷物)を敷いた。為隆が硯と紙を持って来いと仰ったので、(私は)柳の箱に(硯と紙を)盛り、その箱を持ち参った。(盛った紙は一巻だった。前例では二巻だった。失敗であった。)為隆は、この巻を取り叙位次第を巻き返した。(後に聞いたところでは、上皇(鳥羽上皇))が「尻付(=該当人物についての注)は付けた方がよいのではないか。」と仰ったところ、為隆は「前例では尻付はつけておりません。」と言ったそうだ。よって尻付は付けられなかった。)叙位の名簿を書き終わって、右大臣は内記を召し叙位を下付なさった。後に聞いたところでは、従三位に藤原経忠(新院(鳥羽上皇)の別当)で、正四位下に高階宗章(本院(白河法皇)の別当)であったそうだ。(上臈の別当二人である。顕重(源顕重)・有賢(源有賢)等の位階を超越した)。従四位下に藤原顕頼(弁官の上の師俊(源師俊)の位階を越した)。別紙には女の叙位が書かれていた。従三位に藤原公子(按察女房、藤原公実の娘)で、従四位下に藤原隆子(当今(崇徳天皇)の御乳母であり、宗俊朝臣(藤原宗俊)の妻である)、源任子(姫宮の御乳母の代わりで、子良圓の娘である)である。続けて書かれている二通の事(男の叙位の事と女の叙位の事=人事の内容)が書き終わって、諸卿が(南庭に)下り立った。御輦が南の階に連なって並んでいた。御輿には中引き(=几帳のとばり)があった。広い部屋であったために、寝殿に簀子敷を設置した。(崇徳が)皇后(待賢門院璋子)とお二人一緒に同じ輿に乗ることになったため、摂政以下は退下した。次将が一人昇殿し御簾を垂らした。格子を下ろさなかったという。数刻の後、主上が中引きの内に入りなさった。この間御輿の中から薫爐が落ちた。下官(私)は下馬して薫爐を取り、随身に持たせた。しばらくして上皇が大炊御門大路において御見物なさった。続いて(崇徳は)本路(来た道)を通って宮(内裏)にお帰りなさった。(その間、崇徳は御輿の中で)お休みに成られたため、格子を下ろした。宰相中将は剣璽を取り内侍に渡した。御輿が退いた後、下官(私)は急いで列に加わった。続いて名謁が行われた。従三位経忠(藤原経忠)が参議の上に加えられた。(経忠が私に)話して言うことには、「(鳥羽)上皇から御装束を賜り、それを着用しているのだ。模様が施されている有文の帯であった。」ということだ。
裏書に云く、
後に聞いたところでは、上皇の御座が置かれていた所に紫檀地兀子を立てたそうだ。下敷は赤地の錦であり、それらの物は大嘗会悠紀で使用するもので、前もって借りてあったものだった。皇后(皇嘉門院聖子)は末額を結び着御なさった。主上は御拝に白袷を用いられた。(崇徳が)新院を奉拝する時、(欠字)、新院本院の楽の間の御座は皆御拝の時に用いられた(ものを用いた)。(欠字)、採桑老は、康和のころに多資忠が山村吉貞のもとに参り殺害したため(書き下し通りだとこの訳だが、事件のことを考慮すると→多資忠のもとに山村吉貞が参ったため=殺害したため)、その後は京の舞人でこの曲(採桑老)を知る者はいない。しかし天王寺の舞所公定(藤原公定)はこの曲(採桑老)を伝習したとの噂があった。そこで去る十二月ごろに彼(藤原公定)を京都に呼び(他の舞人たちに)伝習させた。舊きを尋ねて新しきを知る。このことは聖代の恒典である。誰も知っている人がいないこの世の中で、何とか舞の形を探り当てて、採桑老を習得したのだろう。(彼は)装束黄の直衣を着ていた。ただし、竹葉を挿していないのは、どうであろうか。各々は故事を知らない者の所業である。黄色の上衣はひどく劣ったものであった。 -
『長秋記』天治元年正月五日条 読み下し文
●読み下し文
正月
五日 晴、辰刻参内す、早く南殿を出御すと云々、今度始めて同輿の儀無しと云々、烏丸より北行す、土御門より東行す、東洞院より南行す、二条殿西門に着御す、供奉の公卿諸司等、多く追々参加す、御輿門外に留む、而るに摂政の命に依り荷を砌中に入る、〈前例外に立つ〉、駕丁警蹕を停む、神官御麻を供う、此の間公卿殿上前の屏南幔外に東を上に南面し列立す、摂政門内南脇に立ち給う、左右大将其の東に立たる〈左北〉、時に院別当按察大納言経実卿列を放ち南に進む、西に向き一揖し、幔門より入り、中門を経て、臨幸の由を奏せらる、両楽の幄乱声を発す、按察帰出す、諸司幔門を開く、入御す、中門の内より、対代西庇の南向戸の下に至る、莚道を敷く、御輿中門内ニ東向きに安ず、
左右將軍中門に入り跪く、右宰相中將宗輔靴を脱ぎ進みて御輿の戸を開く、御劔を取り前行す、錦道を踏まず、西方より行く、次いで攝政主上を抱き奉り、長押の上に立て奉る、下官又靴を脱ぐ、進みて璽を取り、御後錦道東に候ず、入御の後、内侍に付し退歸す、弓を取りて中門廊の戸より出ず、靴を随身して之を取る、此間乱聲止む、龍頭鷁首両船中嶋の南より出づ、池に浮かび妙曲を奏ず、左近將監狛光則龍頭に乗り皷舞す、右近將監多忠方鷁首に乗り又皷舞す、棹郎の童蠻繪の袍を着す、數廻の後樂屋の南に着す、船を辭し幄に入る、〈件の樂屋南庭池心に當たる、板を以って搆え敷く、其の上に沙を敷く、東西南に朱欄を搆う、其の上に纐纈七丈の幄を立つ、其の北中央に太鼓一面を立てる、其の東西に鉦鼓を立つ、其の前に左右の鉾を立てる、幄の北面西方に雙の狛鉾・佐保太鼓を立つ、北に水渡の板橋二つを遣る、東左近仗の東邊りに當たる、左舞是より参る、西池道に當たる、右舞是より参る、〉
楽止む、此の間公卿殿上に候ず、内府召に依り法皇御方に参らる、南面より御簾中に入る、居筥を取り御座右方に置き退く間、上皇庇の西面より出で簾中に着座す、件の御座寝殿中央の母屋に立つ、御座定まる後内府退く、摂政参進す、帛袷を取り、主上御座の上に敷く、〈件御座中央間の庇に在り、帛袷母屋西の御屏風に懸く、鎭子左御屏風の下、摂政笏を搢み、帛袷を敷き給う、事了りて更に歸る、鎭子を取り又置き給う、件の鎭子犀形四つ也、左右の手之を取り給う、御座の四角東西向きに置かる、〉次いで摂政法皇の御氣色を蒙り御方に参内す、渡御すべきの由奏せらる、主上対代東面より出ず、〈透渡殿に當たる間摂政裾を取り候じ給う、寝殿西庇南一間より昇り給う、〈戸の脇において御笏を奉る、〉頭中將忠宗之に供う、漸く東行し御座に昇る、北に向き拝舞す、〈大略許り也、〉法皇感涙を拭い御う、事了りて還御す、
法皇入御す、法服白單の袈裟を着し御う也、内府御簾を褰げ給う、次いで内府居筥を取り御所に入る、置き了りて臺代南面に退歸し給う、次いで權右中辨顕頼参進す、法皇の御座を撤す、便ち西面御簾中より御脇息を取り入る、茵・繧繝端疊二帖也、次いで三方を兼ねる殿上の五位等南面簀子敷を経て東に渡る、繧繝端疊二帖を取る、法皇御座の跡に敷く、顯頼東京錦の茵を取り其の上に敷く、次いで新院寝殿北庇の西向戸より出ず、西庇の南の間入り、母屋より東行し着座し御う、〈南面、通季卿御共に候ず、〉次いで摂政本の帛袷・鎭子等を撤し、本の如く新たな帛袷を置き敷く、〈本より懸けらる御屏風に相置く、程遠く見えず、尋ぬべし、〉次いで御旨により主上渡御し御拝す、其の儀前の如し、還御す、
次ひで上皇入御す。次ひで本の役人等参り進む。上皇御座を撤し、清隆朝臣、顕頼、母屋中央の間に紫壇地兀子を立てる。余の五位等庇御簾を垂れ、主上渡御し母后に奉拝し給ふ。その間の事委しからず。還御の後に聞く、上皇御座の跡に紫壇地兀子を立てる。下敷は赤地の錦。件等の物、大嘗悠紀の所料なり。
借り渡すなり。皇后理髪し末額を着し御ふ。主上御拝に白袷を用いらる。新院奉拝の時主上御座の帛袷等を撤し、本所に置く。上皇の御座繧繝二枚茵等なり。
本の御座を敷くかと云々。上皇出御す。法皇御簾の中に御座す。
御旨により主上の渡御始めの道の如し。左宰相中将宗輔朝臣御釼を取り前行す。御座の東辺に置く。主上御座定。(御笏を持ち給ふ)、下官璽を取り御後に候ず。御座定の後御釼を西南に置き(件の釼・璽等内侍之を持つ。西対の御簾中に候ずるなり、)太政大臣東方より出で、上皇御前の圓座に着す。
摂政留まり御前の圓座に候じ給ふ。御出以前左右の近胡床を立つ。次将等靴を着し弓箭を帯し之を着すと云々、次ひで摂政頭・右大弁雅兼朝臣を召す。
諸卿を召すべきの気色有り。雅兼退き殿上の戸外に出居す。頭を振りて還る。
人々請けず。猶ほ戸内にて右膝を折り居て、召し候ふと謂ふべきなり。右大臣、内大臣、大納言経実、能実、宗忠、能俊、忠教、中納言顕雅、実隆、通季、実行、顕隆、雅定、実能、参議宗輔、為隆、伊通、下官等なり。此の間楽行事に仰せらる。左は成通、右は重通(第二座に着する者なり、)勅を承り各楽屋に向かふ。
左右乱声と云々。此の間、按察大納言参議等、早東に廻り主上に御膳を供ふべし、てへり。先づ公卿の衝重居ふと云々。今に於ひて早御膳供ふべきの由仰せらる。按察大納言笏に搢み打敷を取る(件の打敷の面白地の錦衣・表は袷、金銀銅の薄文有り、)次ひで盤六本、面錦にて盛物色々の玉なり。御飯白玉なり。
参議四人、蔵人頭二人之を取る(六位蔵人等に伝へ取りて之を授く、)
宗輔帰りて御汁物を取る。進みて折敷を居す。次ひで下官御酒盞を取る (予め折敷を居す。下官只盞を取り折敷を取らずして参り進む。陪膳に奉り、蓋を取り帰す。後に聞く、諸卿難じて云く、折敷に居ふべし、てへり。
此の難然るべからず。件の御酒盞の底に丁子を入る。前□或いは居へずに帰らる。
仍って暫く寝殿南妻に於ひて御気色を取る。太政大臣直に供ふべきの気色なり。仍って進すなり、)伊通御銚子を取り後ろに在り。但し入れず持ち帰す。下官退出の時、法皇仰せて云く、院の御前の物早供ふべきの由、行事に仰すべし、てへり。
此の旨を以て顕頼に仰す。陪膳右衛門督弓箭・釼等を撤す。老懸猶ほ冠に在り。
笏を搢み打敷を取り参り進む。紅梅織物打敷に高坏を直す、打敷の面は綾物。
様器凡そ六本、実物等を盛る。経忠朝臣、行宗朝臣、敦宗朝臣、有賢朝臣、清隆朝臣、忠能朝臣役たり。
頭弁雅兼密かに難じて云く、近衛次将等に於ひて此役に寄するべきなり。此の間地久進み出で地に跪く。膳を供し了り舞に立つ。膳を供する間警蹕を称さず。
此の後小要事有り。白地に退下すと云々。公卿の座に勧杯無し。太政大臣と摂政の座席便無き故なり。次ひで奏舞。事了る間、殿上・五位等東方より御遊具を取り役の人々の前に置く。笛(上皇)、筝(摂政)、琵琶(内大臣)、笙(雅定)、拍子(宗忠)、副音(通季、実能、宗輔)、篳篥(敦兼朝臣)、和琴(有賢朝臣)、之に先んじて掃部司南階西腋に座を敷き、召人之に着すと云々。此の間本院の引出物御馬三疋、成通、重通、忠基之を引く。後縄近衛官人一両廻らす後中門より引き出で了んぬ。次ひで新院引出物の御馬三疋、宗能朝臣、実衡、公発之を引く。次ひで贈物。按察、治部卿、民部卿北面に廻り之を取る。御手本御琵琶錦を褁に入る。御琴を褁に入る。事了る間本院色々禄を給ふ。摂政料に織物・細長有り。太政大臣之に先んじて退出す。
事了り忩々に退出する間、公家院司より公卿八人祿・白掛を給はる。
諸卿退座の後、対代南面において、摂政、右大臣、内大臣叙位を議せらる、其の儀、対代南の廂東一間の北辺にて菅圓座一枚を敷き、摂政の座となす、南面、其の西南同じく圓座二枚を敷き・両亟相の座となす、北上東面、摂政の座の前に一枚を敷き執筆参議の座となす、参議の座の東北にて切燈台一基を立つ、蔵人等之を敷く、摂政、右大臣、内大臣次第に着座す、次いで左大弁為隆を召し、為隆着座す、実親を召す、五位蔵人実親参進し簀子敷を居う、為隆硯・紙を召し仰す、乃ち柳の筥に盛り持ち参る、(紙一巻有り、前例二巻なり、失と謂ふべし、)為隆之を取り叙次第を巻き返す、(後に聞く、上皇仰せて云く、尻付有るべきか、しかるを為隆前例附けざるの由申す、仍って之を付けられず、)書き了りて右大臣、内記を召し叙位を下し給ふ、後に聞く、従三位藤原経忠、(新院別当、)正四位下高階宗章、(本院別当なり、上臈別当二人、顕重・有賢等を超越するなり、)従四位下藤原顕頼、(弁官の上の師俊を越す、)別紙女の叙位、従三位藤原公子、(按察女房、)従四位下藤原隆子、(当今御乳母、宗俊朝臣妻、)源任子、(姫宮御乳母代、故良圓娘なり、)続き書きの二通の事了りて、諸卿下り立つ、御輦南階に䡨す、御輿に中引き有り、大間たるにより、寝殿にて簀子敷を安ずる、皇后同輿の間摂政以下退下す、次将一人昇殿し御簾を垂る、格子を下ろさずと云々、漸く数刻に及ぶの間、主上御□□中引きの内に入り御ふ、此の間御輿の中より薫爐落つ、下官下馬し之を取り、随身に持たせしむ、やや久しくして上皇大炊門において御見物す、次いで本路を経て宮に還る、御寝により、先ず格子を下ろす、宰相中将剣璽を取り内侍に授く、御輿退きて後下官忩ぎ列に加うる、次いで名謁、従三位経忠参議の上に加へ立つ、相語りて云く、上皇の御装束を給りて着用す、有文の帯帯すと云々、
裏書に云く、
後に聞く、上皇御座の跡に紫檀地兀子を立てる、下敷は赤地の錦、件らの物大嘗会悠紀の所料なり、兼ねて借り渡す所なり、皇后理髪し末額を着し御ふ、主上御拝に白袷を用いらる、新院奉拝の時、(欠字)、新院本院の楽の間の御座皆御拝の時に用いらる、(欠字)、採桑老、康和の比多資忠山村吉貞のもとに参らんが為、後北の京の舞人此の曲知る者無し、しかるを天王寺の舞所公定此の曲を伝習するの由其の聞こえ有り、去る十二月比京都に召し上せ伝習せしむるなり、舊きを尋ねて新しきを知る、聖代の恒典なり、娑婆を進退し又其の體を得、装束黄の直衣なり、但し竹葉を挿さざるは如何、各故事を存せず、黄袍頗る劣なり、 -
『長秋記』天永四年八月九日 現代語訳
●現代語訳
九日 雨降っている時に参内した。御馬御覧が有る事。前もって呼び寄せていてた、小板敷で、行事蔵人を招いて、左右の毛付を取り寄せて開き見たところ、檀に入れられた北飼の御馬三疋が入ってなかった。そのため書き入れさせた。此の間に天皇がお出でになった。召集があって参進することはいつものようであった。左に七疋、右に五疋であった。御覧が終わって退出する間、御簾の中から尻付を頭辨に押し出して返しなさった。毛付を加えて、小板敷でおっしゃったように書き終わった。よくよく今日のことを考えると、毛付が御所から下しなさった事は、ここ数年見ないことで、不審なことである。この後朝夕の膳が供え、用事が終わって退出した。雨が降っていた。 -
『長秋記』天永四年八月九日 読み下し文
九日 雨の間参内す、御馬御覧の事有り、召しの以前、小板敷に於いて、 行事蔵人を招く、左右毛付を請いて開き見る處、壇の北に加入せらる飼い御馬三疋入らず、仍て書き入らしむ、此の間出御す、召し有りて参進すること例の如し、左七疋、右五疋、御覧了りて退出するの間、御簾の中より尻付を頭辨に押し出し之を返し給う、毛付を加え、小板敷に於いて仰せの如く書き了んぬ、つらつら事の心を案ずるに、毛付御所より下し給う事、年来見えざる事なり、不審なり、此の後朝夕膳を供う、事了りて退出す、雨下る、
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『長秋記』元永二年十二月二十四日条 語釈
・天子日を以て月に易ふる文……:『貞観政要』論悔過にほぼ同様の文章が見られる。論悔過においては、実際には服喪の期間が三年である≒三回忌までの法要が必要であるのに、「日を以て月に」読み替える事で三年を三十六日に短縮し、一ヶ月強で法要を終えてしまう事を、「礼典に乖く」ものだとして太宗が嘆いている。ここにおいても、結果的には三ヶ月(これは親子の服喪期間に相当するが、白河院と輔仁親王は兄弟であり、時の鳥羽天皇とは親戚のため、実際には四十九日が適切であろう)喪に服すはずだが、「日を以て月に」読み替える事で三日になっていると考えられる。
・鰭袖:袍、直衣、直垂などで、袖を広くするために、袖の端にさらに半幅付けた袖。
・荷前使:のさきのつかひ。十二月、諸国からの貢物の初物を九月に皇大神宮、十二月に帝陵と外戚の墓に奉る事。十二月の荷前は、指定された陵墓にこの荷前使が派遣される。いつごろから始められたかは未詳。九月の皇大神宮荷前と本来は一連のものであったと思われるが、平安時代にはもっぱら、十二月のそれが「荷前」の語の通例となっている。