投稿者: t-takagi

  • 参考文献(応仁の乱と義政・富子)

    参考文献

    榎原雅治・清水克行編『室町幕府将軍列伝』(戎光祥出版、2017年)

    大藪 海「応仁・文明の乱とその時代」(『歴史地理教育』948、2022年)

    大藪 海『応仁・文明の乱と明応の政変(列島の戦国史2)』(吉川弘文館、2021年)

    木下昌規編『足利義政(シリーズ・室町幕府の研究5)』(戎光祥出版、2024年)

    呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2016年)

    田端泰子『日野富子』(ミネルヴァ書房、2021年)

    田端泰子『足利義政と日野富子』(山川出版社、2011年)

    和田英道「足利義視『都落記』について」(『跡見学園女子大学紀要』13,1980年)

  • 『大乗院寺社雑事記』 文明九年七月廿九日条 解説

    【概要】

    ・『大乗院寺社雑事記』は、奈良の興福寺大乗院門跡の尋尊(1430~1508)が記した日記。尋尊は関白一条兼良(1402~1481)の子で、記事は宝徳2年(1450)から永正5年(1508)までの50年以上に及ぶ(途中に欠損期間あり)。尋尊の筆まめな性格から、記事の内容はきわめて多岐に及び、室町時代後期の畿内周辺の政治・経済・社会・文化を知る上での基本史料。頻発する土一揆や大和の国人たちの動向、室町幕府の将軍・守護らや公家たちの動静などを克明に記録している他、応仁・文明の乱の状況についても、京都から伝え聞いた情報や大和国内への波及の状況なども詳しく記している。

    ・原漢文。『増補 続史料大成』に12巻本が収録。記主による自筆の原本は国立公文書館内閣文庫所蔵。なお、尋尊自身が記した「大乗院寺社雑事記」とは別に、尋尊が歴代の門主(住職)の日記などをもとに編纂した「大乗院日記目録」があり、正長の土一揆について「日本開白以来、土民の蜂起これ初めなり」と記した、教科書にもよく掲載されて印象的な記述は、後者に含まれる記事である(『増補 続史料大成』第12巻に収録)。

    【授業で使う際のポイント】

    ・日野富子は、永享12年(1440)、日野政光の娘として生まれ、16歳になった康正元年(1455)、足利義政のもとに嫁いだ。義政には既に側室が複数いたようであるが、足利将軍家は代々、日野家から正室を迎えており、富子も正室として義政に迎え入れられた。日野家の家格は、朝廷において弁官を経て中納言・大納言に至る「名家」であったが、後光厳天皇や後小松天皇との関係や、足利将軍家との関係から次第に権勢を強め、富子の兄・勝光は、その家格からは異例の内大臣・左大臣まで昇進して、その権勢を揶揄されて「押大臣」などとも評された。一方、本史料からもうかがえるように、富子と同時代の日野家の経済状況がきわめて良好であり、朝廷や室町幕府の経済にも大きな影響力を持っていたことが知られる。日野家は、京都市中の四条町・六角町という繁華なエリアに所領を展開し、酒屋・土倉といった商工業者と日常的に交際していたことも、そうした経済状況に大いに貢献していたとみられる。

    ・この史料は、前半と後半でその内容が一見大きく異なるため、やや解釈の難しい史料ではあるが、富子の裕福ぶりをうかがわせる史料としてよく注目されるのは後半部分である。いずれにせよ、10年続いた応仁・文明の乱終盤期の史料であり、後述するように、その終戦の要因ともなったとの指摘もある出来事について記された史料である。

    ・前半部分の冒頭は、本史料の記主である興福寺大乗院の尋尊が、身の回りでこの日にあった出来事について記した部分である。連歌師の宗祇(1421~1502)が都から奈良に下向してきて、室町殿(義政)と御台(富子)が禁裏(宮中)の歌合で詠まれた歌について、点を打ったり、判詞を付けた(詠まれた歌に対する評価や優劣を述べた)ため、それを持参して成就院までやってきた。「惣じて京都の儀は、毎時その道なく、御運今の如くんば嘆き入るの由と云々」という一文の解釈がやや難解だが、少し後の「当年中、無為の儀これ無くば、おのおの逐電すべきの支度」という一文と関わらせて解釈するとすれば、「御運」が現状の通り続くとすれば、歎き入る=勘弁してもらいたい、というほどの意味ではないだろうか。「御運」の解釈が難解だが、直前の「道なく」との関わりで、ここでは通行・運行などの意味と捉えておきたい。なお、杉原賢盛(1418~1486)は、足利義政の近習のひとりで富子の家の()(らい)(家司/家政をつかさどる家人)でもあり、また宗伊と名乗る連歌師でもあった。その作歌は『新撰菟玖波集』・『竹林抄』に入集している。

    ・「御台、一天の御計らいの間」で始まる後半は、急に話題が変わる印象だが、杉原賢盛ら「奉公方の者ども」の困窮ぶりと比べた「御台」=日野富子の富裕ぶりを対比的に述べたものと理解しておきたい。「一天の御計らいの間」も解釈のしどころではあるが、おおむね現代語訳した通りに解釈して大きな問題はなかろう。応仁・文明の乱が継続して戦費がかさむ中、「陣中の大名・小名」たちが、戦費調達のため富子から「利平を以て」すなわち利子を付けて「借用す」という部分や、それに続く「ただ一天下の料足は、この御方にこれ有る様に見え畢んぬ」という部分が、富子の「悪女」ぶりや「富裕」ぶりを強調する言説の根拠ともなってきたが、近年、こうした見方は再検討が進んでいる。

    ・すなわち、寛正6年(1465)に誕生した義政嫡男の義尚が9歳となった文明5年(1473)、元服と同時に第9代将軍に就任し、富子の兄・日野勝光が「新将軍の代として、日野前内府((勝光))、一円にその沙汰を致し(日野勝光が新将軍義尚の代理として、政務の一切を取り仕切った)」という状況となったが、その勝光が文明8年(1476)に没すると、まだ年若い将軍義尚を後見するのは富子以外になく、富子は天皇の譲位問題や公家・寺社関係の訴訟や人事などに関与することとなった。しかし、富子の夫・義政も、将軍職こそ義尚に譲ったとは言え、義尚の「御判始」・「評定始」(将軍としての権限を行使する御判御教書の最初の発給や政務開始の儀式)は行われておらず、相変わらず「室町殿」と呼ばれて政務を継続している。これは、社会一般的に成人となる年齢とされた15歳に満たない者の花押(サイン)には効力がないとされていたためで、義政は義尚が15歳となるまで、自身の花押を据えて御判御教書の発給を代行した。そのため、富子による執政は、そうした室町殿の権限を超越するほどのものではなく、将軍の御判御教書に代替するような公文書を発給した事実も一切ないとされている。富子の執政といわれるものは、あくまでも幼少の将軍の生母としての後見として、きわめて限局的なものであったの理解が広がってきている。

    ・また、最終段の「近日また米倉の事、これを仰せ付けらる。御商いあるべきの由、御支度」という部分も、従来は富子が戦乱のさなか、米商売によって私腹を肥やそうとしていたなどというように解釈されることもあったが、「仰せ付けらる」という表現から、米倉の設置は、将軍あるいは義政から命じられて取り組んだことであって、政策実施の主体性はあくまでも富子にあったわけではなかったと考えられる。その上でこの米倉の設置は、「大儀の米共なりと云々」と記されている点も重要で、応仁・文明の乱の長期化というこの時期の時代背景をふまえて、「大儀」とは何を指すか、授業で生徒たちに考えさせたいところである。ひとつの解釈として、「大儀」を「大義」の当て字と考えて、戦争終結という「大義」と考えることも可能なのではないだろうか。つまり、この「米倉」は、戦争を終結させ、戦陣にある軍勢を帰国させるための兵粮米を収蔵するための倉とは捉えられないだろうか。そうだとすれば、富子による米倉の設置は、まさに長きにわたった応仁・文明の乱を終結させるための準備であったと考えることも可能であろう。

    ・なお、末尾で富子が千貫もの大金を貸している「畠山左衛門佐」であるが、能登の守護で西軍(山名方。但し山名宗全は既に死去)に属していた畠山(よし)(むね)ではないかとの説が有力である。かつては、この人物を東軍の畠山義就に比定して、富子が西軍にも東軍にも金銭を貸す「死の商人」であるような言説もみられたが、畠山義就は「右衛門佐」であって、この史料にある「左衛門佐」ではない。史料は厳密に読み解いていかねばならない。なお、近年では、尋尊はよく『大乗院寺社雑事記』の中で、畠山左衛門督政長(東軍)のことを誤って「左衛門佐」と書くことがあったことから、ここでもこれを誤記とみなして、これを政長に比定する見解も示されている。                               (作成:高木徳郎)

  • 『経覚私要抄』寛正二年二月七日条 解説

    【概要】
     ・『経覚私要抄』は、興福寺大乗院の門跡で興福寺別当なども務めた経覚(1395~1473)の日記。途中に欠損期間もあるものの、記事は応永22年(1415)から文明4年(1472)に及び、室町時代の政治動向や社会情勢などを知る上で重要な史料。経覚は関白九条経教の子で、室町幕府3代将軍足利義満のブレーンとして知られる醍醐寺三宝院の満済(まんさい・1378~1435)とも親交を深めた一方、6代将軍足利義教から大乗院を一時追放されるなど、波乱の生涯を送った。同じく大乗院の門跡となった尋尊(じんそん・1430~1508)とは一世代ほど年長で、大乗院を追放された経覚の後任として大乗院に入ったのが、当時まだ9歳だった尋尊であった。その後義教の死により、経覚も復権し、経覚は幼い尋尊を支える形で門跡の地位に復帰した。以後、二人の複雑な関係が継続していくことになる。
     ・原漢文。『史料纂集』に10巻本が収録。別名『安位寺殿御自記』・『後五大院殿記』とも呼ばれる。原本は内閣文庫所蔵。
    【授業で使う際のポイント】
     ・この記事は、足利義政が政治に無関心であったかを考える上で、たいへん興味深い史料である。義政が政治に関心を失ってゆくのは、長引く応仁・文明の乱の終息がなかなか見通せない現実があったようにも見受けられるが、少なくとも開戦当初は積極的に早期の終戦に向けた努力を進めていたことは、「開戦直後の状況」の項で解説した通りである。また、義政の執政初期は、政治への関心は決して低いわけではなかったことが、近年の政治史研究の進展により明らかにされてきている。
     ・この記事は、天竺(インド、ジャワ、もしくはアラビア)の商人を父に持つ楠葉西忍の子で、自らも父に同行して天竺に渡った経験のある楠葉新右衛門元次が、大乗院の経覚のもとに来て語った話として記されたもので、元次はどうやら義政本人から聞いた話として語っているようである。「室町殿」とは、室町幕府の3代将軍足利義満が京都の室町に邸宅(花の御所)を構えて以来、足利義教・義政もここに居住したため、足利将軍をこのように呼称することが多くなった。ここではもちろん、義政を指している。一方、「普廣院」は足利義教の法名で、室町時代においては、過去の将軍をこのように法名で呼称することが多かった。したがってここでは、亡くなった父・義教が、束帯姿という正装で義政の夢枕に立って、以下のように語ったとのだという。
     ・「吾存庄の時」からが夢枕で語った義教の台詞で、「悲しみを助くべきか」まで続く。夢の内容は、現代語訳を参照すればおおむね理解できるだろう。「…と覚えて御夢覚め了んぬ」とあるが、「…と覚えて」というのは義政の認識で、義政が、父・義教が夢の中でそのように語ったと「覚えた」、すなわち感じた、ということである。続く「これにより」というのは、この夢を見た義政の決意と行動を語った部分で、少し後に「云々」とあることから、この部分は楠葉元次が経覚に語った台詞である。これを記しているのは経覚なので、史料を読み取る際には、会話部分が「入れ子」のように多重構造になっているので注意させたいところである。そしてこの元次が経覚に伝えている義政の決意と行動が、義政が本当に政治に無関心であったと評価できるかを考えさせる上で重要な部分である。
     ・なお、寛正2年(1461)2月と言えば、前年までの2年続いた異常気象により発生した長禄・寛正の飢饉が継続中であり、そのような中、義政としては願阿という者に命じて、いわゆる施餓鬼せがきを行わせたというのである。施餓鬼とは、仏教における施行の一種で、無縁の亡者に飲食物を与えたり、読経や供養を行うことをいう。「有り難き御夢想なり」とは経覚の義政に対する感想だが、このような為政者として飢饉に立ち向かう態度にもっぱら感服している様子が読み取れよう。ちなみに、義政は「阿」という阿弥号を付けた同朋衆を多く抱えて作庭や芸能にあたらせたことがよく知られているが、この願阿もそうした一人だったかも知れない。なお、「廣大の御利益にあらずや」とは、厳密に文法的に訳すと、「大いなる御利益がないことがあるだろうか」というような二重否定の表現だが、現代語訳では単純に意訳しておいた。
     ・ところで、こうした飢饉に際しての義政の社会政策的な取り組みが、本記事で語られるように、父である義教の夢語りに後押しされる形で実行されたとみられる点について、これが義政本人の主体的な意志によるものというよりは、父・義教への思慕、もしくは憧憬に発するものではないかという指摘もある。いずれにせよ他の史料と比較しながら検討しなければ答えの出ない問題ではあるが、義政の政治へ意欲の有無は、イメージに流されることなく、その人格や資質を史料に基づいて慎重に見極めながら考えさせたい問題である。

  • 『経覚私要抄』応仁元年五月廿八日条 解説

    【概要】
     ・『経覚私要抄』は、興福寺大乗院の門跡で興福寺別当なども務めた経覚(1395~1473)の日記。途中に欠損期間もあるものの、記事は応永22年(1415)から文明4年(1472)に及び、室町時代の政治動向や社会情勢などを知る上で重要な史料。経覚は関白九条経教の子で、室町幕府3代将軍足利義満のブレーンとして知られる醍醐寺三宝院の満済(まんさい・1378~1435)とも親交を深めた一方、6代将軍足利義教から大乗院を一時追放されるなど、波乱の生涯を送った。同じく大乗院の門跡となった尋尊(じんそん・1430~1508)とは一世代ほど年長で、大乗院を追放された経覚の後任として大乗院に入ったのが、当時まだ9歳だった尋尊であった。その後義教の死により、経覚も復権し、経覚は幼い尋尊を支える形で門跡の地位に復帰した。以後、二人の複雑な関係が継続していくことになる。
    ・原漢文。『史料纂集』に10巻本が収録。別名『安位寺殿御自記』・『後五大院殿記』とも呼ばれる。原本は内閣文庫所蔵。

    【授業で使う際のポイント】
     ・この記事は、応仁・文明の乱の開戦の様子を伝える史料である。冒頭に名前の見える「下村与三男」は大和の国人衆・古市氏の若党で、前々日から京都に上っていたがこの日に大和に戻ってきて、京都の様子を詳しく伝えてくれた。それによると、去る5月25日、一条大路あたりの竹木を、「用害」のため細川方の手勢が伐採したが、この竹木の所有者は山名方の者だったという。「用害」は「要害」と書くことも多く、一般的には城塞などの軍事施設を指すが、ここでは用害のために竹木を伐採したというのだから、防御を目的とした柵・塀などを想定した方がよいかもしれない。いずれにしても、そうした軍事的な資源を一方的に伐採したことにより、戦闘の火ぶたが切って落とされた。
     ・「明くる日の廿六日」以降の部分は、応仁・文明の乱開戦当初の対立構造を読み取らせるには好適な史料となろう。まずは「彼の方より大勢出で、一色屋形に馳せ入り了んぬ」の部分であるが、ここは直前の「人を出し追い払い了んぬ」を受けていると考えられ、山名方が所有していた竹木を細川方が伐採したことに対し、山名方が「人を出して」細川方を「追い払った」のだとすれば、「彼の方」はその報復として、「一色屋形」に「馳せ入った」すなわち襲撃した、と解釈することが可能である。つまり「彼の方」とは細川方と解釈でき、そうすると、その次の「しかるに一色、山名方へ罷り出で留守の間、屋形を焼き払い了んぬ」の部分も理解しやすくなる。すなわちここは、一色義直が山名方の屋敷などに出かけて留守であったので、襲撃した細川方は一色義直の留守宅に火をかけて焼き払ったわけで、一色義直は山名方に与する大名であったために、細川方によって襲撃され、その屋敷を焼き払われてしまったということになろう。まずは、<細川方>対<山名・一色方>という対立構図が読み取れるわけである。
     ・続く「その勢をまた打たんがため」というのは、山名方の一色義直の屋敷を焼き払った細川方を「打たんがため」という意味だろうから、焼き打ちに対する再報復のため、「山名(方)より垣屋」・「右衛門佐(方)より甲斐庄」・「武衛(方)より朝倉」の三部隊が出撃して、戦闘が本格的に始まった、と理解できよう。垣屋・甲斐庄・朝倉の武将名は、後の戦国大名の単元で登場する朝倉氏を除いて教科書には登場しないが、「右衛門佐」=畠山義就、「武衛」=斯波義廉は教科書における応仁・文明の乱の対立構造の図表などには必ず名前が載る人物なので、(  )内の人名比定を活用して注目させておきたい。その上で、ここでは彼らがいずれも山名方として戦闘に加わっていることを読み取らせ、最後の「一番に京極勢、垣屋と戦うところへ朝倉馳せ向かいて追い崩し了んぬ」という部分から、山名方の垣屋・朝倉と戦う京極持清勢という構図が読み取れることから、四職家のひとつであった京極氏が細川方であったことを読み取らせたい。これにより、<細川・京極>対<山名・一色・畠山義就・斯波義廉>という、室町幕府の有力大名たちの対立構造が読み取れるということになる。
     ・しかし、この史料でより重要なのは、このような開戦時の状況に対する足利義政の態度である。別の項目でも述べたが、足利義政については、とかく「政治に無関心」「飢饉や戦乱に対して無策」といったネガティブなイメージが付きまとう。しかし、この史料で大乗院の尋尊は、義政が応仁・文明の乱の開戦時、「右京大夫(細川勝元)・山名(宗全)」の「両方」に対し「無為の計略を廻らし候へと仰せ付けらる」とはっきりと記している。応仁・文明の乱の発生に接した同時代の尋尊がこれを記していることはきわめて重要である。「無為の計略」とは何か、生徒たちにはぜひ考えてもらいたい部分だが、被害を最小限に食い止めて戦闘を終わらせるための方策というほどの意味である。そうした方策を考える(「廻らせる」)ことを、細川・山名の双方に「仰せ付け」たのである。室町幕府の頂点に立つ将軍として、その権力をないがしろにしようとしていた細川勝元と山名宗全という「部下」に対して、明確に監督者としての責務を果たそうとしていた、ということである。同時代の尋尊は、そのことをきわめて正当に評価し、自身の日記に書き留めていたわけである。

  • 『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月二日条 解説

    【概要】
     ・『大乗院寺社雑事記』は、奈良の興福寺大乗院門跡の尋尊(1430~1508)が記した日記。尋尊は関白一条兼良(1402~1481)の子で、記事は宝徳2年(1450)から永正5年(1508)までの50年以上に及ぶ(途中に欠損期間あり)。尋尊の筆まめな性格から、記事の内容はきわめて多岐に及び、室町時代後期の畿内周辺の政治・経済・社会・文化を知る上での基本史料。頻発する土一揆や大和の国人たちの動向、室町幕府の将軍・守護らや公家たちの動静などを克明に記録している他、応仁・文明の乱の状況についても、京都から伝え聞いた情報や大和国内への波及の状況なども詳しく記している。
     ・原漢文。『増補 続史料大成』に12巻本が収録。記主による自筆の原本は国立公文書館内閣文庫所蔵。なお、尋尊自身が記した「大乗院寺社雑事記」とは別に、尋尊が歴代の門主(住職)の日記などをもとに編纂した「大乗院日記目録」があり、正長の土一揆について「日本開白以来、土民の蜂起これ初めなり」と記した、教科書にもよく掲載されて印象的な記述は、後者に含まれる記事である(『増補 続史料大成』第12巻に収録)。
    【授業で使う際のポイント】
    ・応仁・文明の乱は、応仁元年(1467)5月26日の明け方、東軍の細川勝元らの軍勢が将軍の御所(室町殿)を包囲し、西軍の一色義直の屋敷を襲撃したことで勃発した。以後、毎日のように京都の市街地のあちこちで、寺社や公家たちの屋敷が焼かれたり軍勢の陣地とされたりして、10月頃までは激しい戦闘が続いた。
     ・この記事は、そうした開戦直後の京都の状況を生々しく伝える史料である。冒頭の「随心院殿」とは尋尊の兄であり随心院門跡の厳宝で、弟に手紙を送って京都の状況を伝えている。これによると、戦闘の勃発により「家門」(尋尊らの実家である一条家)の「御迷惑」(ここでは困惑している、というほどの意であろう)が始まっており、それは「京中の売買」が麻痺し、「食物類」が「一向叶わず」すなわち手に入らなくなってしまったことにより起こっている様子がうかがえる。そしてこの状況は禁裏(天皇)も仙洞(上皇)も同様だという。
     ・また、二度ほど出てくる「御幡」とは、自軍が室町幕府の将軍を擁する“官軍”であり、反乱軍ないしは謀反人ではないことを証する旗のことである。記事では、これが西軍(山名方)に通じていると噂されていた「日野内府」(日野勝光)の手元に押し留められてしまったため、東軍(細川方)が「内府亭を焼き払うべし」と息巻いている様子が伝えられている。これに対し、「内府」は自身の屋敷の周囲に「堀」を掘って抵抗しようとし、それにかかる費用として「夫銭」を一条家にも賦課してきたという。ところが、この「堀」は屋敷の出入り口である「大門・小門」の前にも掘られてしまい、万一、屋敷に火を放たれて火災となっても中から逃げ出す道がなくなってしまい、「御生涯に及ぶべし」すなわち命を落としてしまう、と笑い話のような話が記されている。「珍事この事なり」という言葉に、パニックに陥る京都の様子が生々しく伝えられていると言ってよいだろう。「大門・小門の御前も日々夜々、合戦場なり」とあり、戦闘が毎日毎夜、目の前で繰り広げられている様子も綴られている点にも注意したい。
     ・この将軍家の「御幡」だが、捜索したにも関わらず、山名方(西軍)の一色義直が密かに持ち出していて、将軍の御所(室町殿)にはなかったようで、仕方なく細川方(東軍)では「俄にこれを織らる」すなわち御旗を新たに織って製作したという。官軍であることを証明する旗とはその程度のものか、とも思うがこれもパニックの一端を示しているとも言えそうだ。こうした状況の中で、「公方」(=義政)は、「今出河殿」(=足利義視)と「若君」(=のちの足利義尚)と一緒におり、筆者の尋尊には、その様子が「御迷惑の御風情なり」つまり困惑し、オロオロするばかりのようにみえる、というのだから、やや頼りなさげに映っていたようである。

  • 鳥羽院庁下文案 康治元年十二月十三日 語釈

    ※1 四至:所有地、耕作地、寺域などの東西南北の四方の境界。
    ※2 牓示:領地・領田などの境界を示すために設置された。
    ※3 立券:物件の取得・売買・譲渡に際して公文書(立券文)を作成する手続き。特に平安時代以降、荘園を認可するとき荘園側と国衙が立ち会って四至・坪付を確定して公文書を作る。
    ※4 仏聖料:仏へのお供え物。
    ※5 収公:国衙に没収されること。
    ※6 地利米:その土地で生産された米。
    ※7 おほんため:~のために。~するために。
    ※8 三密の教法:空海が開いた真言宗をはじめとする密教の三つの教え。具体的には、「身密」=身体・行動、「口密」=言葉・発言、「意密」=こころ・考えについての教えを指すが、この三密を整えることで即身成仏(生きたまま仏になる)できるという密教の教えを表す。
    ※9 「臣一の善女有り。其の君に献ず」:「臣一の善を得て、必ず其の君に献ず。」(弘法大師伝全集第二)とあるので引用したヵ。
    ※10 庁裁:院庁の裁き。
    ※11 国使:国衙からの使者。
    ※12 能米:玄米。
    ※13 康治元年:一一四二年。
    (作成:伊藤裕貴)

  • 鳥羽院庁下文案 康治元年十二月十三日 読み下し文

    「〈神野((別紙))・真国新田十石寄進事 院庁御下文案〉     」
    院庁下す 紀伊国在庁官人等
     早く使者相共に、四至(※1 しいし)を堺し牓示(※2 ぼうじ)を打ち、立券※3し言上すべき、神野・真国の山地弐箇処の事
    郡に在り、
     壱処神野
      四至東は岫峯くきのみねを限る
     南は志賀良しからの
    横峯よこみね

    を限る
     

        西は佐々少河ささおがわの西峯にしのみねを限る 北は津河つがわの北峯きたのみねを限る
     壱処真国
      四至東は加天婆かてわ(ば)の永峯ながみねを限る 南は津河北峰を限る
     西は伯父おじのみねを限る 北は高峯たかみねを限る

        使(使者名欠)
    右、権中納言兼皇后宮権大夫侍従藤原朝臣家(成通)の去んぬる十一月三日の寄文にはく、「件の所領は、当国の住人なが依友よりともの先祖相伝の私領なり。往年の比、事の由緒有るに依り、高野山に寄進し、仏聖料※4を弁済す。その後偏へに停廃ちょうはいに従い、みだりに収公※5を致す。民烟みんえん逃散し、でん荒廃す。しかるに今、非道の妨げを省かんがため、当家に寄せ与うる所なり。次第の文書と謂ひ、調度のげんと謂ひ、全く相違無し。誰か異論を致さん。ここに件の庄を以て永く院庁に寄進するの後、御領となす。其の地利米※6(石)を以て、毎年高野山に弁進を致す。是則ち一には禅定仙院(鳥羽)の万歳の宝算のおほ※7んため、一には弘法大師の三密※8の教法に資する也。臣一※9の善女有り。其の君に献ず。けだしこの謂ひか。望み請ふらくは庁裁※10を、件の庄、永代を以て限り、不輸租田と為すべし。永く※11国使くにづかひならびびに寺使てらづかひを入るべからず。毎年貢に至りては、敢へて懈怠けたいあるべからず。預所においては、永く領家の附属ふしょくに任せ、補せらるべし。」てへれば、申請の旨に任せて、御領となし、使者あい共に四至を堺し牓示を打ち、立券し言上すべし。御年貢の能米※12(石)に至りては、毎年高野御山に運び進らし、預所においては、彼の家の譲状に任せて、執行しぎょうせしむべきの状、仰せの所くだんの如し。在庁官人等、宜しく承知すべし。違失すべからず。ことさらに下す。
     康治元※13年十二月十三日 主典代散位中原朝臣□□
    別当権大納言藤原朝臣(実行ヵ)  権大納言兼右近衛大将藤原朝臣(実能)
    (以下、三十五名署名省略)
            

  • 『吾妻鏡』治承四年九月十九日条 読み下し文

     十九日、戊辰、上総権介広常、当国周東すとう周西すさい伊南いなん伊北いほう・庁南・庁北の輩等を催し具し、二万騎を率いて隅田河の辺りに参上す。武衛頗る彼の遅参をいかり、敢えて以て許容の気なし。広常潜かに為を以て、当時は卒土は皆平相国禅閣の管領に非ざるはなし。ここに武衛、流人としてすなわち義兵を挙げるの間、その形勢高峻の相なくば、直にこれを討ち取り、平家に献ずべしとてえり。よって内には二図の存念を挿すといえども、外には帰伏の儀を備えて参る。しからばこの数万の合力を得て、感悦せらるべきかの由、思い儲くのところ、遅参を咎めらるの気あり、これほとんど人主の体に叶うなり。これによりたちまち害心を変じ、和順を奉ると云々。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『吾妻鏡』治承四年六月十九日・二十四日・二十七日条

    ・読み下し文

     十九日、庚子、散位康信の使者、北条に参着するなり。武衛、閑所において対面し給う。使者申して云わく、去月廿六日、高倉宮(以仁王)の御事あるの後、彼の令旨を請けるの源氏等、皆以て追討せらるべきの旨、その沙汰あり。君は正統なり。殊に怖畏るべきか。早く奥州方に遁れ給うべきの由、存ずるところなり、とてえり。
     廿四日、乙巳、入道源三品敗北の後、国々の源氏を追討せらるべきの条、康信の申状、浮言に処せらるべからざるの間、さえぎりて平氏追討の籌策を廻らさんと欲す。よって御書を遣わし、累代の御家人等を招かる。藤九郎盛長(安達)を御使となし、また小中太光家を相副えらると云々。
     廿七日、戊申、三浦次郎義澄義明二男、千葉六郎大夫胤頼常胤六男等、北条に参向す。日来京都に祗候し、去月中旬の比、下向せんと欲すの刻、宇治合戦等の事により、官兵をして抑留せらるるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんがため、参入の由これを申す。日来、番役により在京するところなり。武衛、件の両人に対面し給い、御閑談、刻を移す。他人これを聞かず。
                                   (作成:高木徳郎)