投稿者: t-takagi

  • 『経覚私要抄』応仁元年五月廿八日条・読み下し文

       一、下村の与三男、一昨日京都に上り、今日、酉の剋、下向せしめ了んぬ。京都の様、委細申すと云々。
       まず去る廿五日、用害として一条の辺の竹を右京太夫(細川勝元)方の者、これを切る。この竹の主は山名方の者なり。よってこの告を聞き、人を出し追い払い了んぬ。明くる日の廿六日、彼の方より大勢出で、一色(義直)屋形に馳せ入り了んぬ。しかるに一色、山名方へ罷り出で留守の間、屋形を焼き払い了んぬ。その勢をまた打たんがため、山名(方)より垣屋、右衛門佐(畠山義就)(方)より甲斐庄、武衛(斯波義廉)より朝倉(出張る)ところ、一番に京極勢(持清)、垣屋と戦うところへ朝倉(孝景)馳せ向かいて追い崩し了んぬ。(中略)京都の式、言詞を以て述べ難きなりと云々。
     一、室町殿には近習の者共、三番にして門々を閉じて警固し奉ると云々。但し両方右京太夫・山名へ御使を立てられ、まず無為の計略を廻らし候へと仰せ付けらると云々。
    (作成:高木徳郎)

  • 『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月二日条  ・現代語訳

     一、随心院殿からの手紙をもらった。京都の様子はいよいよ混迷を極めているようである。とくに九条家が被っている御迷惑は計り知れないものがあるという。なぜなら京都中で売買が中断し、そのため食料が一切入荷せず、その御迷惑は申しようもないという。禁裏・仙洞も例外ではないという。今度、(将軍家の)御旗が日野内大臣のもとに預けられることとなり、そのため細川方が近日中に内大臣亭を焼き払うと申しているという。それを受けて内大臣亭では堀が掘られているといい、九条家に対しても夫銭が賦課されたようである。大門・小門の前に大きな堀が掘られ、この様子では万が一火事が起こっても、邸内から脱出することが出来なくなってしまい、きっと焼け死んでしまうとと言われているという。珍事とはまさにこのことである。近衛家の大門・小門の前も、日々夜々、合戦場となっているという。□□公方の御旗のことを尋ねられたところ、一色がこれを取って敵方に渡してしまったということらしく、急きょこれを新調することになったようである。
    (中略)
    公方(足利義政)は今出河殿(足利義視)と若君(足利義尚)と同じ所におり、現在のこの状況(西軍と東軍とに分かれて睨み合っている状況)は大変迷惑だという様子である。


                                   (作成:高木徳郎)

  • 『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月二日条 読み下し文

      一、随心院殿より書状を給わる。京都の儀、尚々珍事々々。なかんずく家門の儀の御迷惑、これに過ぐべからずと云々。京中の売買叶うべからず。然る間、食物類、一向に叶わず、御迷惑申すばかりもなしと云々。禁裏・仙洞もこの御儀と云々。今度、御幡の事、日野内府、これを申し留む。よって細川より近日、内府亭を焼き払うべしと云々。内府亭、堀を掘られ、家門へも夫銭これを進らす。大門・小門前に大堀を成され畢んぬ。万一火事の出来これあらば、御出の道あるべからざるの間、御生涯に及ぶべしと云々。珍事この事なり。家門の大門・小門の御前も、日々夜々合戦場なり。□□公方の御幡、尋ねらるところ、一色これを取り、敵方にこれを置かると云々。よって俄にこれを織らるの由と云々。
     (中略)
    公方は今出河殿・若君以下、御一所に御座す。只今の儀、一向に御迷惑の御風情なりと云々。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『蔭凉軒日録』寛正五年四月五日・八日・十日条 ・語釈

     *今晨…今朝
     *昭堂…禅寺で僧堂と後架の間にある堂舎(日国)
     *蔭凉…鹿苑院内にあった塔頭・蔭凉軒を指すかと思われる。普通名詞としての「蔭涼」は物陰になっていて涼しいことを指す。
     *弊寮…※大漢和などにないが、文脈から「自分の住居」をへりくだって言っているか。
     *赤松次郎法師…赤松政則のこと。
     *恭敬歓喜の懐…
     *崇寿院雪庵…※不明。末柄豊「室町時代公家日記禅僧索引」に所掲なし。崇寿院は相国寺の塔頭か。
     *快然…快全か。病気などが平癒すること。
     *勧進…寄付を募ること。ここでは鞍馬寺修造のための寄付を募ることを指している。
     *公方…将軍を指す言葉。ここでは足利義政を指す。
     *山名金吾…山名持豊(宗全)のこと。「金吾」は左右の衛門府を指す唐名(中国の官制における同様の府省の呼称)。
     *皈去…「皈」は「帰」と同字。返り去ること。
     *上様…足利義政の正室・日野富子のこと。
     *陌上はくじょうに塵を揚ぐ…「陌上の塵」でちまたの塵。飛び散り一定していないことの譬え。
             「陌」は道、あぜみち、町、市中の道、はちまき等の意味がある。
     *治部大輔殿…斯波義廉か?
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『蔭凉軒日録』寛正五年四月五日・八日・十日条   ・解説

    【概要】
    ・『蔭凉軒日録』は、室町幕府4代将軍・足利義持が相国寺鹿苑院に設けた寮舎・蔭凉軒の軒主により記された公用日記。鹿苑院は国内の禅宗寺院を統括する機関であり、蔭凉軒はその鹿苑院と足利将軍の連絡役として、政治的に重要な役割を果たした。
    が執筆した永享7年(1435)~嘉吉元年(1441)・長禄2年が執筆した文明16年(1384)~明応2年(1493)分、さらに継之景俊けいしけいしゅんが執筆した天文21年(1552)~元亀3年(1572)分がある(須田牧子「蔭凉軒日録」、元木泰雄・松薗斉編『日記で読む日本中世史』所収、ミネルヴァ書房、2011年)。

    ・原漢文。季瓊真蘂・亀泉集証の執筆分は『増補 続史料大成』に5巻本が収録。一方、継之景俊の執筆分は、『鹿苑日録』(続群書類従完成会)に「継之日件」として収録されている。それぞれ禅僧独特の難解な語彙、文法が多用されているのも大きな特徴である。記主の自筆による原本の多くは関東大震災で焼失したが、残簡が東京大学史料編纂所にある他、写本が前田育徳会尊経閣文庫・国立公文書館などに所蔵されている。
    【授業で使う際のポイント】
    ・寛正5年(1464)は、応仁・文明の乱が起こる3年前。長禄3年(1459)に発生した長禄・寛正の大飢饉は寛正2年(1461)まで約3年にわたって続き、京都中で約8万2千人の死者が出たという(『碧山日録』)。従来、この飢饉に対する義政の対応については、後花園天皇が義政を諫めたという『長禄寛正記』の記事などをもとに、その無能ぶりが批判されてきたが、別項で述べるように、この時期の義政が必ずしも無策であったというわけでは決してない。
    ・この記事は、そうした飢饉がようやく終息し、そこからの復興を祝う過程で久方ぶりに行われた「ただす河原がわら勧進猿楽」の様子を記したもの。「これを観る者、もしくは千人」とみえ、その規模がうかがえ、「六十三間の桟敷。公家・武家の騎馬・衣服、観を改む。皆曰く近来の壮観なりと」(五日条)との部分からは、見物のために設けられた桟敷の規模や、どういった人々が見物したかが読み取れる。
    ・六日条の前半は蔭凉軒を訪れた(「御成」)義政の様子が描かれているが、後半に「天下太平の時、必ず勧進あり。これ故、上下和睦して相楽しむ。もっとも公方の御威勢、これに過ぐべからず」とあり、飢饉が終息して訪れた「太平」を、「上下」の人々が喜ぶ様子や、「公方」=義政の「御威勢」を讃える様子が読み取れよう。また、酒宴も尽きることなく続いたようで、「七番」の猿楽が終わっても座を立つ者はなく、義政が「還御」するまで続いたという。こうした様子から、筆者の季瓊真蘂は「その威を畏むなり」と、義政に対する人々の畏敬の念を感じ取っていることが分かる。

  • 『蔭凉軒日録』寛正五年四月五日・八日・十日条 ・読み下し文

    五日 今晨不参。河原勧進。申楽。観世。午後、御成り。能は七番。これを観る者、もしくは千人。数を挙ぐべからざるなり。御桟敷の杯盤、狼藉。酒宴歓楽娯楽。古来今に絶ゆ。河原申楽以後、ついに管領細川左京大夫殿に御成り。六十三間の桟敷。公家・武家・騎馬、衣服、観を改む。皆曰く近来の壮観なりと。日晴れて風静か。公方御車に乗らるなり。
    八日 当軒御成りの事を報らせ奉るなり。御成り、まず昭堂において御焼香。以後、蔭凉において御斎。斎の後、御手水。すなわち前日河原申楽、一会歌舞、衣裳華麗、神妙の至り。談中にありて刻移ろうなり。赤松次郎法師、前日、御桟敷において召され、御盃を下さる。すなわち今晨参りて折紙・御太刀を献ず。以後、弊寮に来たりて、その祝義を伸ぶ。また前日召さるる事、仰せ出さる。すなわちその恭敬歓喜の懐を申すなり。崇寿そうじゅ院雪庵和尚、当軒において、はじめて御相伴に参らるなり。前日、天気にわかに晴る。御快然の由、仰せ出さるなり。天下太平の時、必ず勧進あり。これ故、上下和睦して相楽しむ。もっとも公方の御威勢、これに過ぐべからず。申楽七番過ぐ。しかる後、御宴いまだ終わらずして、見物の者、座を起ち得ず、もしくは千人、その数、量うべからず。皆、一言のもとに笠を脱ぐ。これまたその威を畏むなり。山名金吾、田楽永阿弥に命じ、諸人笠を脱がしむ。しかるに還御せざる以前、皆、座を起たず、還御に及びて忽ち皈去す。もっとも威の服する所、感謝に堪えざるなり。
    十日 不参。午後、河原桟敷に御成り。まず三宝院の御桟敷に参り、拝覧す。上様の出車ならびに御輿の次に、公方様御成り。御車陌上に塵を揚ぐ、人中、観を改む。皆、希有と曰く。状観、古来今に絶ゆ。能は十番、二番に請けらる。けだし先規なり。御桟敷よりついに治部大輔殿に御成りなり。けだし旧例なり。今暁天陰る。明晨快晴、もっとも時にすべきなり。
                                 (作成:高木徳郎)

  • 読み下し文

    (外題)        
    「荒野開発の輩、抽賞すべき者なり。てへれば他の妨げ無く、永くこれを領知すべし。                           在判」
     赤穂郡司解す 国裁を申し請うの事
    特に且つは公益に依り、且つは勲功の賞を以て、当郡久富保字庄荒井溝荒田を領知せられんことを請うの状
      歩危上壱所 拾捌町余 当作伍町貳段 字抽井
       四至 西東限限字字母尾祚朝多路和  北南限限字字大童蔵堂山 
      歩危下壱所 参拾貳町余 字宇多波田井畝
       四至 西東限限長字尾童 堂 北南限限字字大法蔵師多崎和鷹気取 山
      副え進らす 留守所の御外題二枚
     右、謹んで案内を検ずるに、作田に至りては領掌致し、官物に於いては公益を存ぜんが為、去年廿日より始め今に至るまで、件の井溝を宿所となし、未だ私宅に罷り帰らず、五千余の人功を尽くす者なり。但し件の井、旧跡有りと雖も、罷り立て難き所として、年序を経畢んぬ。そもそも件の井溝の体たるや、田口より井口まで遠く三十町許り、其の内、土樋の渡す程五箇所、木樋の渡す所五段余、山腰の歩尾に道を穿鑿する事二町余り、其の内誠に限り無き巌を破り治める所五段余許りなり。(中略)望み請うらくは国裁を、解状に任せて勲功の賞を垂れ、件の荒井溝・流れ荒田を領知せんと裁定せしめられんことを請う。てえれば、事状を勒し以て解す。
       承保二年四月廿八日                     大掾秦為辰
                                   (作成:高木徳郎)

  • 開発領主の姿

    播磨国赤穂郡司秦為辰解案(東寺百合文書)