投稿者: t-takagi

  • 『長秋記』元永二年十二月八日条 現代語訳

    ●現代語訳
    八日(内侍所御神楽)、権僧正の檀所に向かった。中宮権亮實能がやってきて言う事には、今夜は召人なので、沐浴の為に来たとの事だ。私もまた召人だったので、これを聞いて共に沐浴した。その後伊予守(藤原長実)の宿所に向かって、細弓・鞆絃袋を送った。(伊予守が)聟執の間にこれらを入れましょう、と言った。今夜、甲斐守(藤長輔)が参河守有賢朝臣の家に立ち寄った。今夜露顕であるという。参内して蔵人らに、「大将より示された所である。右近の陣の吉上等が訴えを申し上げている。近日、蔵人が吉上を呼び宿所を守護させている。また昼夜問わず私用に駆使している。まるで乱罸の様に陪膳にも催促させているという。これは誰がやっている事なのか。先例はあるが、今回の事に沿うものではない。沿う先例が無いならば早く停止されなければなない。一旦お伝え申し上げて(使役した事を)認めなければ、その時(院に)奏聞するのが良いだろう」と問い伝えた。蔵人盛行が言う事には、「この事は左衛門尉国能がやった事です。主上は全てお聞きになっています。今となってはこのような事には出仕しないでしょう」、との事だった。暫くして退出した。私は御剣に控えた。宗輔朝臣が御裾を取り、南殿及び軒廊春興宜陽殿代等を経て、内侍所に入御した(長橋を構え筵道を敷いていた、)。最初に屏風の中で御拝を行った。次いで南面御座に着御された。御拝の間南面御座に御剣を置いて退出した。頭中将が勅命を伝えて言う事には、「庭火本歌に奉仕せよ」、との事だった。形式通りに奉仕する事を申し上げた。伊通朝臣が和琴、成通朝臣が末歌、殿上人が着座した(西上北面、)召人が着座した。殿上人は六人伊通朝臣、忠宗朝臣、実能朝臣、成通朝臣、季成、そして私であった。地下元祐、清仲、忠光、定元、時貞、業兼が着座した(西本、東末、)。人長は末方に控えていた(列座である)。近衛府召人は暫く着座しなかった。この座は四列であった(本方・末方それぞれ二列か)。一献(宗輔、経忠)、二献(顕重、貞信)、三献(某)があった。続いて庭火があった。(本歌は私、末歌は成通、琴は伊通、笛は清仲、篳篥は忠光だった)続けて近衛召人が着座した。本(歌)は近方(拍子、)秦兼信と兼行、末歌は時光(拍子、)清原遠兼、秦公方、物を取り終えて勧盃した。才男を呼び、陪従が散楽を行った。元輔・清仲は㝡であった。事が終わって宗輔朝臣が星歌に奉仕するよう仰せになった。なのでそれ(星歌)を詠唱した。今夜人長が命によって本方に着座するはずだったが、風気がひどいために末方に座した。伊通朝臣は神楽の間に兼業を呼んで座上に座し、琴を弾かなかった。琴が終わり退出した。月入の頃に帰宅した。

  • 『長秋記』元永二年十二月八日条 読み下し

    ●読み下し
    八日(内侍所御神楽)、権僧正檀所に向かふ。中宮権亮實能参会して云く、今夜召人たるに依り、沐浴の為来る所なり。下官又召人なり。この旨を聞き、相共に沐浴す。次ひで伊予守の宿所に向かひ、細弓・鞆絃袋を送る。聟執の間件の物等入れるべしと云々。
    今夜、甲斐守参河守有賢朝臣の家を過る。今夜露顕と云々。参内し蔵人等に問ひて云く、大将の御許より示される所なり。右近陣・吉上等訴え申す事有り。近日蔵人吉上を召し宿所を守護せしむ。又昼夜私便を行はしむ。陪膳を催さしむ、羇時乱罰に及ぶが如しと云々。件の事誰人為す所か。先例有るもこの限りに非ず。例に非ずんば早停止せらるべきなり。一旦觸れ申し承引無くんば、その時奏聞すべし、てへり。蔵人盛行に云く、件の事左衛門尉国能為す所なり。主上皆聞し食す所なり。今に於いては然る如くの事に候ぜざるか。やや久しくして出で行く。下官御剣に候ず。宗輔朝臣御裾を取り、南殿及び軒廊春興宜陽殿代等を経て、内侍所に入御す(長橋を構え筵道を敷く、)。先づ屏風中に於ひて御拝、次ひで南面御座に着御す。御拝の間南面御座に御剣を置き退下す。頭中将勅を伝えて云く、庭火本歌に奉仕すべし、てへり。形の如く奉仕すべきの状を申す。伊通朝臣和琴、成通朝臣末歌、殿上人着座す(西上北面、)召人着座す。殿上人は六人、伊通朝臣、忠宗朝臣、実能朝臣、成通朝臣、季成、下官等なり。地下元祐、清仲、忠光、定元、時貞、業兼着座す(西本、東末、)人長末方に在り。(列座、)近衛召人暫く着座せず。件の座四行なり(本末各二行歟、)。一献(宗輔、経忠、)、二献(顕重、貞信、)、三献(某、)、次ひで庭火、(本歌下官、末歌成通、琴伊通、笛清仲、篳篥忠光、)次ひで近衛召人着座す。本近方(拍子、)、秦兼信、同じく兼行、末時光(拍子、)、清原遠兼、秦公方、物取り了り勧盃す。才男を召し、陪従散楽す。元輔清仲㝡なり。事了り宗輔朝臣星歌に奉仕すべきの由仰す。仍って唱え了んぬ。今夜人長命に依り本方に着す。而るに風気甚だしきに依り末方に居す。伊通朝臣神楽の間業兼を召し座上に居し琴を弾かず。琴了り退御す。月入に帰家す。

  • 『長秋記』元永二年十二月十日条 語釈

    ●語釈
    ・会稽:もとは中国の地名。 敗戦の恥辱。中国春秋時代に越王勾践が呉王夫差ふさのために破られて会稽山くわいけいざんに囲まれ、捕えられて恥辱を受けた後に夫差を破って、その恥辱をすすいだ故事が転じて、復讐を指す。

  • 『長秋記』元永二年十二月十日条  現代語訳

    ●現代語訳
    十日 参院した。行幸定があった。与奪は新大納言仲実、執筆は治部卿能俊、参仕の上達部は右衛門督顕通、藤大納言宗忠、別當忠教、新中納言実隆、宰相中将信通らであった。事が終わり、それぞれ連れ立って土御門殿に参上した。御仏名の事があった。新宰相中将雅定が参加した。御導師は湛秀、寛厳、勝仁。事が終わって名謁した。所衆・武者所は去年から夜に?御仏名会に参加しているそうだ。事が始まらない内に、武者らが所衆の者達を打擲したので、御仏名会が終わったあと所衆らは復讐しようと待っていたが、武者らを恐れてすぐには参入しなかった。所衆は分散した後数刻経ってから参入した。

  • 『長秋記』元永二年十二月十日条  読み下し

    ●読み下し
    十日 参院す。行幸定め有り。与奪新大納言仲実、執筆治部卿能俊、参仕の上達部
    右衛門督顕通、藤大納言宗忠、別當忠教、新中納言実隆、宰相中将信通等なり。
    事了り相率ゐて土御門に参る。御仏名の事有り。新宰相中将雅定参加す。御導師湛秀、
    寛厳、勝仁、事了り名謁す。所衆・武者所去年より御仏名夜□等の事に有りと云々。
    事未だ始まらざる前、武者等所衆徒を打たば、事了りて後所衆等会稽の為相待つと雖も、武者所に怖れを成し参入せず。所衆分散の後数刻を経て参入す。

  • 参考文献(応仁の乱と義政・富子)

    参考文献

    榎原雅治・清水克行編『室町幕府将軍列伝』(戎光祥出版、2017年)

    大藪 海「応仁・文明の乱とその時代」(『歴史地理教育』948、2022年)

    大藪 海『応仁・文明の乱と明応の政変(列島の戦国史2)』(吉川弘文館、2021年)

    木下昌規編『足利義政(シリーズ・室町幕府の研究5)』(戎光祥出版、2024年)

    呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2016年)

    田端泰子『日野富子』(ミネルヴァ書房、2021年)

    田端泰子『足利義政と日野富子』(山川出版社、2011年)

    和田英道「足利義視『都落記』について」(『跡見学園女子大学紀要』13,1980年)

  • 『大乗院寺社雑事記』 文明九年七月廿九日条 解説

    【概要】

    ・『大乗院寺社雑事記』は、奈良の興福寺大乗院門跡の尋尊(1430~1508)が記した日記。尋尊は関白一条兼良(1402~1481)の子で、記事は宝徳2年(1450)から永正5年(1508)までの50年以上に及ぶ(途中に欠損期間あり)。尋尊の筆まめな性格から、記事の内容はきわめて多岐に及び、室町時代後期の畿内周辺の政治・経済・社会・文化を知る上での基本史料。頻発する土一揆や大和の国人たちの動向、室町幕府の将軍・守護らや公家たちの動静などを克明に記録している他、応仁・文明の乱の状況についても、京都から伝え聞いた情報や大和国内への波及の状況なども詳しく記している。

    ・原漢文。『増補 続史料大成』に12巻本が収録。記主による自筆の原本は国立公文書館内閣文庫所蔵。なお、尋尊自身が記した「大乗院寺社雑事記」とは別に、尋尊が歴代の門主(住職)の日記などをもとに編纂した「大乗院日記目録」があり、正長の土一揆について「日本開白以来、土民の蜂起これ初めなり」と記した、教科書にもよく掲載されて印象的な記述は、後者に含まれる記事である(『増補 続史料大成』第12巻に収録)。

    【授業で使う際のポイント】

    ・日野富子は、永享12年(1440)、日野政光の娘として生まれ、16歳になった康正元年(1455)、足利義政のもとに嫁いだ。義政には既に側室が複数いたようであるが、足利将軍家は代々、日野家から正室を迎えており、富子も正室として義政に迎え入れられた。日野家の家格は、朝廷において弁官を経て中納言・大納言に至る「名家」であったが、後光厳天皇や後小松天皇との関係や、足利将軍家との関係から次第に権勢を強め、富子の兄・勝光は、その家格からは異例の内大臣・左大臣まで昇進して、その権勢を揶揄されて「押大臣」などとも評された。一方、本史料からもうかがえるように、富子と同時代の日野家の経済状況がきわめて良好であり、朝廷や室町幕府の経済にも大きな影響力を持っていたことが知られる。日野家は、京都市中の四条町・六角町という繁華なエリアに所領を展開し、酒屋・土倉といった商工業者と日常的に交際していたことも、そうした経済状況に大いに貢献していたとみられる。

    ・この史料は、前半と後半でその内容が一見大きく異なるため、やや解釈の難しい史料ではあるが、富子の裕福ぶりをうかがわせる史料としてよく注目されるのは後半部分である。いずれにせよ、10年続いた応仁・文明の乱終盤期の史料であり、後述するように、その終戦の要因ともなったとの指摘もある出来事について記された史料である。

    ・前半部分の冒頭は、本史料の記主である興福寺大乗院の尋尊が、身の回りでこの日にあった出来事について記した部分である。連歌師の宗祇(1421~1502)が都から奈良に下向してきて、室町殿(義政)と御台(富子)が禁裏(宮中)の歌合で詠まれた歌について、点を打ったり、判詞を付けた(詠まれた歌に対する評価や優劣を述べた)ため、それを持参して成就院までやってきた。「惣じて京都の儀は、毎時その道なく、御運今の如くんば嘆き入るの由と云々」という一文の解釈がやや難解だが、少し後の「当年中、無為の儀これ無くば、おのおの逐電すべきの支度」という一文と関わらせて解釈するとすれば、「御運」が現状の通り続くとすれば、歎き入る=勘弁してもらいたい、というほどの意味ではないだろうか。「御運」の解釈が難解だが、直前の「道なく」との関わりで、ここでは通行・運行などの意味と捉えておきたい。なお、杉原賢盛(1418~1486)は、足利義政の近習のひとりで富子の家の家(け)礼(らい)(家司/家政をつかさどる家人)でもあり、また宗伊と名乗る連歌師でもあった。その作歌は『新撰菟玖波集』・『竹林抄』に入集している。

    ・「御台、一天の御計らいの間」で始まる後半は、急に話題が変わる印象だが、杉原賢盛ら「奉公方の者ども」の困窮ぶりと比べた「御台」=日野富子の富裕ぶりを対比的に述べたものと理解しておきたい。「一天の御計らいの間」も解釈のしどころではあるが、おおむね現代語訳した通りに解釈して大きな問題はなかろう。応仁・文明の乱が継続して戦費がかさむ中、「陣中の大名・小名」たちが、戦費調達のため富子から「利平を以て」すなわち利子を付けて「借用す」という部分や、それに続く「ただ一天下の料足は、この御方にこれ有る様に見え畢んぬ」という部分が、富子の「悪女」ぶりや「富裕」ぶりを強調する言説の根拠ともなってきたが、近年、こうした見方は再検討が進んでいる。

    ・すなわち、寛正6年(1465)に誕生した義政嫡男の義尚が9歳となった文明5年(1473)、元服と同時に第9代将軍に就任し、富子の兄・日野勝光が「新将軍の代として、日野前内府((勝光))、一円にその沙汰を致し(日野勝光が新将軍義尚の代理として、政務の一切を取り仕切った)」という状況となったが、その勝光が文明8年(1476)に没すると、まだ年若い将軍義尚を後見するのは富子以外になく、富子は天皇の譲位問題や公家・寺社関係の訴訟や人事などに関与することとなった。しかし、富子の夫・義政も、将軍職こそ義尚に譲ったとは言え、義尚の「御判始」・「評定始」(将軍としての権限を行使する御判御教書の最初の発給や政務開始の儀式)は行われておらず、相変わらず「室町殿」と呼ばれて政務を継続している。これは、社会一般的に成人となる年齢とされた15歳に満たない者の花押(サイン)には効力がないとされていたためで、義政は義尚が15歳となるまで、自身の花押を据えて御判御教書の発給を代行した。そのため、富子による執政は、そうした室町殿の権限を超越するほどのものではなく、将軍の御判御教書に代替するような公文書を発給した事実も一切ないとされている。富子の執政といわれるものは、あくまでも幼少の将軍の生母としての後見として、きわめて限局的なものであったの理解が広がってきている。

    ・また、最終段の「近日また米倉の事、これを仰せ付けらる。御商いあるべきの由、御支度」という部分も、従来は富子が戦乱のさなか、米商売によって私腹を肥やそうとしていたなどというように解釈されることもあったが、「仰せ付けらる」という表現から、米倉の設置は、将軍あるいは義政から命じられて取り組んだことであって、政策実施の主体性はあくまでも富子にあったわけではなかったと考えられる。その上でこの米倉の設置は、「大儀の米共なりと云々」と記されている点も重要で、応仁・文明の乱の長期化というこの時期の時代背景をふまえて、「大儀」とは何を指すか、授業で生徒たちに考えさせたいところである。ひとつの解釈として、「大儀」を「大義」の当て字と考えて、戦争終結という「大義」と考えることも可能なのではないだろうか。つまり、この「米倉」は、戦争を終結させ、戦陣にある軍勢を帰国させるための兵粮米を収蔵するための倉とは捉えられないだろうか。そうだとすれば、富子による米倉の設置は、まさに長きにわたった応仁・文明の乱を終結させるための準備であったと考えることも可能であろう。

    ・なお、末尾で富子が千貫もの大金を貸している「畠山左衛門佐」であるが、能登の守護で西軍(山名方。但し山名宗全は既に死去)に属していた畠山義(よし)統(むね)ではないかとの説が有力である。かつては、この人物を東軍の畠山義就に比定して、富子が西軍にも東軍にも金銭を貸す「死の商人」であるような言説もみられたが、畠山義就は「右衛門佐」であって、この史料にある「左衛門佐」ではない。史料は厳密に読み解いていかねばならない。なお、近年では、尋尊はよく『大乗院寺社雑事記』の中で、畠山左衛門督政長(東軍)のことを誤って「左衛門佐」と書くことがあったことから、ここでもこれを誤記とみなして、これを政長に比定する見解も示されている。                               (作成:高木徳郎)

  • 『経覚私要抄』寛正二年二月七日条 解説

    【概要】
     ・『経覚私要抄』は、興福寺大乗院の門跡で興福寺別当なども務めた経覚(1395~1473)の日記。途中に欠損期間もあるものの、記事は応永22年(1415)から文明4年(1472)に及び、室町時代の政治動向や社会情勢などを知る上で重要な史料。経覚は関白九条経教の子で、室町幕府3代将軍足利義満のブレーンとして知られる醍醐寺三宝院の満済(まんさい・1378~1435)とも親交を深めた一方、6代将軍足利義教から大乗院を一時追放されるなど、波乱の生涯を送った。同じく大乗院の門跡となった尋尊(じんそん・1430~1508)とは一世代ほど年長で、大乗院を追放された経覚の後任として大乗院に入ったのが、当時まだ9歳だった尋尊であった。その後義教の死により、経覚も復権し、経覚は幼い尋尊を支える形で門跡の地位に復帰した。以後、二人の複雑な関係が継続していくことになる。
     ・原漢文。『史料纂集』に10巻本が収録。別名『安位寺殿御自記』・『後五大院殿記』とも呼ばれる。原本は内閣文庫所蔵。
    【授業で使う際のポイント】
     ・この記事は、足利義政が政治に無関心であったかを考える上で、たいへん興味深い史料である。義政が政治に関心を失ってゆくのは、長引く応仁・文明の乱の終息がなかなか見通せない現実があったようにも見受けられるが、少なくとも開戦当初は積極的に早期の終戦に向けた努力を進めていたことは、「開戦直後の状況」の項で解説した通りである。また、義政の執政初期は、政治への関心は決して低いわけではなかったことが、近年の政治史研究の進展により明らかにされてきている。
     ・この記事は、天竺(インド、ジャワ、もしくはアラビア)の商人を父に持つ楠葉西忍の子で、自らも父に同行して天竺に渡った経験のある楠葉新右衛門元次が、大乗院の経覚のもとに来て語った話として記されたもので、元次はどうやら義政本人から聞いた話として語っているようである。「室町殿」とは、室町幕府の3代将軍足利義満が京都の室町に邸宅(花の御所)を構えて以来、足利義教・義政もここに居住したため、足利将軍をこのように呼称することが多くなった。ここではもちろん、義政を指している。一方、「普廣院」は足利義教の法名で、室町時代においては、過去の将軍をこのように法名で呼称することが多かった。したがってここでは、亡くなった父・義教が、束帯姿という正装で義政の夢枕に立って、以下のように語ったとのだという。
     ・「吾存庄の時」からが夢枕で語った義教の台詞で、「悲しみを助くべきか」まで続く。夢の内容は、現代語訳を参照すればおおむね理解できるだろう。「…と覚えて御夢覚め了んぬ」とあるが、「…と覚えて」というのは義政の認識で、義政が、父・義教が夢の中でそのように語ったと「覚えた」、すなわち感じた、ということである。続く「これにより」というのは、この夢を見た義政の決意と行動を語った部分で、少し後に「云々」とあることから、この部分は楠葉元次が経覚に語った台詞である。これを記しているのは経覚なので、史料を読み取る際には、会話部分が「入れ子」のように多重構造になっているので注意させたいところである。そしてこの元次が経覚に伝えている義政の決意と行動が、義政が本当に政治に無関心であったと評価できるかを考えさせる上で重要な部分である。
     ・なお、寛正2年(1461)2月と言えば、前年までの2年続いた異常気象により発生した長禄・寛正の飢饉が継続中であり、そのような中、義政としては願阿という者に命じて、いわゆる施餓鬼せがきを行わせたというのである。施餓鬼とは、仏教における施行の一種で、無縁の亡者に飲食物を与えたり、読経や供養を行うことをいう。「有り難き御夢想なり」とは経覚の義政に対する感想だが、このような為政者として飢饉に立ち向かう態度にもっぱら感服している様子が読み取れよう。ちなみに、義政は「阿」という阿弥号を付けた同朋衆を多く抱えて作庭や芸能にあたらせたことがよく知られているが、この願阿もそうした一人だったかも知れない。なお、「廣大の御利益にあらずや」とは、厳密に文法的に訳すと、「大いなる御利益がないことがあるだろうか」というような二重否定の表現だが、現代語訳では単純に意訳しておいた。
     ・ところで、こうした飢饉に際しての義政の社会政策的な取り組みが、本記事で語られるように、父である義教の夢語りに後押しされる形で実行されたとみられる点について、これが義政本人の主体的な意志によるものというよりは、父・義教への思慕、もしくは憧憬に発するものではないかという指摘もある。いずれにせよ他の史料と比較しながら検討しなければ答えの出ない問題ではあるが、義政の政治へ意欲の有無は、イメージに流されることなく、その人格や資質を史料に基づいて慎重に見極めながら考えさせたい問題である。

  • 『経覚私要抄』応仁元年五月廿八日条 解説

    【概要】
     ・『経覚私要抄』は、興福寺大乗院の門跡で興福寺別当なども務めた経覚(1395~1473)の日記。途中に欠損期間もあるものの、記事は応永22年(1415)から文明4年(1472)に及び、室町時代の政治動向や社会情勢などを知る上で重要な史料。経覚は関白九条経教の子で、室町幕府3代将軍足利義満のブレーンとして知られる醍醐寺三宝院の満済(まんさい・1378~1435)とも親交を深めた一方、6代将軍足利義教から大乗院を一時追放されるなど、波乱の生涯を送った。同じく大乗院の門跡となった尋尊(じんそん・1430~1508)とは一世代ほど年長で、大乗院を追放された経覚の後任として大乗院に入ったのが、当時まだ9歳だった尋尊であった。その後義教の死により、経覚も復権し、経覚は幼い尋尊を支える形で門跡の地位に復帰した。以後、二人の複雑な関係が継続していくことになる。
    ・原漢文。『史料纂集』に10巻本が収録。別名『安位寺殿御自記』・『後五大院殿記』とも呼ばれる。原本は内閣文庫所蔵。

    【授業で使う際のポイント】
     ・この記事は、応仁・文明の乱の開戦の様子を伝える史料である。冒頭に名前の見える「下村与三男」は大和の国人衆・古市氏の若党で、前々日から京都に上っていたがこの日に大和に戻ってきて、京都の様子を詳しく伝えてくれた。それによると、去る5月25日、一条大路あたりの竹木を、「用害」のため細川方の手勢が伐採したが、この竹木の所有者は山名方の者だったという。「用害」は「要害」と書くことも多く、一般的には城塞などの軍事施設を指すが、ここでは用害のために竹木を伐採したというのだから、防御を目的とした柵・塀などを想定した方がよいかもしれない。いずれにしても、そうした軍事的な資源を一方的に伐採したことにより、戦闘の火ぶたが切って落とされた。
     ・「明くる日の廿六日」以降の部分は、応仁・文明の乱開戦当初の対立構造を読み取らせるには好適な史料となろう。まずは「彼の方より大勢出で、一色屋形に馳せ入り了んぬ」の部分であるが、ここは直前の「人を出し追い払い了んぬ」を受けていると考えられ、山名方が所有していた竹木を細川方が伐採したことに対し、山名方が「人を出して」細川方を「追い払った」のだとすれば、「彼の方」はその報復として、「一色屋形」に「馳せ入った」すなわち襲撃した、と解釈することが可能である。つまり「彼の方」とは細川方と解釈でき、そうすると、その次の「しかるに一色、山名方へ罷り出で留守の間、屋形を焼き払い了んぬ」の部分も理解しやすくなる。すなわちここは、一色義直が山名方の屋敷などに出かけて留守であったので、襲撃した細川方は一色義直の留守宅に火をかけて焼き払ったわけで、一色義直は山名方に与する大名であったために、細川方によって襲撃され、その屋敷を焼き払われてしまったということになろう。まずは、<細川方>対<山名・一色方>という対立構図が読み取れるわけである。
     ・続く「その勢をまた打たんがため」というのは、山名方の一色義直の屋敷を焼き払った細川方を「打たんがため」という意味だろうから、焼き打ちに対する再報復のため、「山名(方)より垣屋」・「右衛門佐(方)より甲斐庄」・「武衛(方)より朝倉」の三部隊が出撃して、戦闘が本格的に始まった、と理解できよう。垣屋・甲斐庄・朝倉の武将名は、後の戦国大名の単元で登場する朝倉氏を除いて教科書には登場しないが、「右衛門佐」=畠山義就、「武衛」=斯波義廉は教科書における応仁・文明の乱の対立構造の図表などには必ず名前が載る人物なので、(  )内の人名比定を活用して注目させておきたい。その上で、ここでは彼らがいずれも山名方として戦闘に加わっていることを読み取らせ、最後の「一番に京極勢、垣屋と戦うところへ朝倉馳せ向かいて追い崩し了んぬ」という部分から、山名方の垣屋・朝倉と戦う京極持清勢という構図が読み取れることから、四職家のひとつであった京極氏が細川方であったことを読み取らせたい。これにより、<細川・京極>対<山名・一色・畠山義就・斯波義廉>という、室町幕府の有力大名たちの対立構造が読み取れるということになる。
     ・しかし、この史料でより重要なのは、このような開戦時の状況に対する足利義政の態度である。別の項目でも述べたが、足利義政については、とかく「政治に無関心」「飢饉や戦乱に対して無策」といったネガティブなイメージが付きまとう。しかし、この史料で大乗院の尋尊は、義政が応仁・文明の乱の開戦時、「右京大夫(細川勝元)・山名(宗全)」の「両方」に対し「無為の計略を廻らし候へと仰せ付けらる」とはっきりと記している。応仁・文明の乱の発生に接した同時代の尋尊がこれを記していることはきわめて重要である。「無為の計略」とは何か、生徒たちにはぜひ考えてもらいたい部分だが、被害を最小限に食い止めて戦闘を終わらせるための方策というほどの意味である。そうした方策を考える(「廻らせる」)ことを、細川・山名の双方に「仰せ付け」たのである。室町幕府の頂点に立つ将軍として、その権力をないがしろにしようとしていた細川勝元と山名宗全という「部下」に対して、明確に監督者としての責務を果たそうとしていた、ということである。同時代の尋尊は、そのことをきわめて正当に評価し、自身の日記に書き留めていたわけである。