『蔭凉軒日録』寛正五年四月五日・八日・十日条   ・解説

【概要】
・『蔭凉軒日録』は、室町幕府4代将軍・足利義持が相国寺鹿苑院に設けた寮舎・蔭凉軒の軒主により記された公用日記。鹿苑院は国内の禅宗寺院を統括する機関であり、蔭凉軒はその鹿苑院と足利将軍の連絡役として、政治的に重要な役割を果たした。
が執筆した永享7年(1435)~嘉吉元年(1441)・長禄2年が執筆した文明16年(1384)~明応2年(1493)分、さらに継之景俊けいしけいしゅんが執筆した天文21年(1552)~元亀3年(1572)分がある(須田牧子「蔭凉軒日録」、元木泰雄・松薗斉編『日記で読む日本中世史』所収、ミネルヴァ書房、2011年)。

・原漢文。季瓊真蘂・亀泉集証の執筆分は『増補 続史料大成』に5巻本が収録。一方、継之景俊の執筆分は、『鹿苑日録』(続群書類従完成会)に「継之日件」として収録されている。それぞれ禅僧独特の難解な語彙、文法が多用されているのも大きな特徴である。記主の自筆による原本の多くは関東大震災で焼失したが、残簡が東京大学史料編纂所にある他、写本が前田育徳会尊経閣文庫・国立公文書館などに所蔵されている。
【授業で使う際のポイント】
・寛正5年(1464)は、応仁・文明の乱が起こる3年前。長禄3年(1459)に発生した長禄・寛正の大飢饉は寛正2年(1461)まで約3年にわたって続き、京都中で約8万2千人の死者が出たという(『碧山日録』)。従来、この飢饉に対する義政の対応については、後花園天皇が義政を諫めたという『長禄寛正記』の記事などをもとに、その無能ぶりが批判されてきたが、別項で述べるように、この時期の義政が必ずしも無策であったというわけでは決してない。
・この記事は、そうした飢饉がようやく終息し、そこからの復興を祝う過程で久方ぶりに行われた「ただす河原がわら勧進猿楽」の様子を記したもの。「これを観る者、もしくは千人」とみえ、その規模がうかがえ、「六十三間の桟敷。公家・武家の騎馬・衣服、観を改む。皆曰く近来の壮観なりと」(五日条)との部分からは、見物のために設けられた桟敷の規模や、どういった人々が見物したかが読み取れる。
・六日条の前半は蔭凉軒を訪れた(「御成」)義政の様子が描かれているが、後半に「天下太平の時、必ず勧進あり。これ故、上下和睦して相楽しむ。もっとも公方の御威勢、これに過ぐべからず」とあり、飢饉が終息して訪れた「太平」を、「上下」の人々が喜ぶ様子や、「公方」=義政の「御威勢」を讃える様子が読み取れよう。また、酒宴も尽きることなく続いたようで、「七番」の猿楽が終わっても座を立つ者はなく、義政が「還御」するまで続いたという。こうした様子から、筆者の季瓊真蘂は「その威を畏むなり」と、義政に対する人々の畏敬の念を感じ取っていることが分かる。

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