【概要】
・『経覚私要抄』は、興福寺大乗院の門跡で興福寺別当なども務めた経覚(1395~1473)の日記。途中に欠損期間もあるものの、記事は応永22年(1415)から文明4年(1472)に及び、室町時代の政治動向や社会情勢などを知る上で重要な史料。経覚は関白九条経教の子で、室町幕府3代将軍足利義満のブレーンとして知られる醍醐寺三宝院の満済(まんさい・1378~1435)とも親交を深めた一方、6代将軍足利義教から大乗院を一時追放されるなど、波乱の生涯を送った。同じく大乗院の門跡となった尋尊(じんそん・1430~1508)とは一世代ほど年長で、大乗院を追放された経覚の後任として大乗院に入ったのが、当時まだ9歳だった尋尊であった。その後義教の死により、経覚も復権し、経覚は幼い尋尊を支える形で門跡の地位に復帰した。以後、二人の複雑な関係が継続していくことになる。
・原漢文。『史料纂集』に10巻本が収録。別名『安位寺殿御自記』・『後五大院殿記』とも呼ばれる。原本は内閣文庫所蔵。
【授業で使う際のポイント】
・この記事は、応仁・文明の乱の開戦の様子を伝える史料である。冒頭に名前の見える「下村与三男」は大和の国人衆・古市氏の若党で、前々日から京都に上っていたがこの日に大和に戻ってきて、京都の様子を詳しく伝えてくれた。それによると、去る5月25日、一条大路あたりの竹木を、「用害」のため細川方の手勢が伐採したが、この竹木の所有者は山名方の者だったという。「用害」は「要害」と書くことも多く、一般的には城塞などの軍事施設を指すが、ここでは用害のために竹木を伐採したというのだから、防御を目的とした柵・塀などを想定した方がよいかもしれない。いずれにしても、そうした軍事的な資源を一方的に伐採したことにより、戦闘の火ぶたが切って落とされた。
・「明くる日の廿六日」以降の部分は、応仁・文明の乱開戦当初の対立構造を読み取らせるには好適な史料となろう。まずは「彼の方より大勢出で、一色屋形に馳せ入り了んぬ」の部分であるが、ここは直前の「人を出し追い払い了んぬ」を受けていると考えられ、山名方が所有していた竹木を細川方が伐採したことに対し、山名方が「人を出して」細川方を「追い払った」のだとすれば、「彼の方」はその報復として、「一色屋形」に「馳せ入った」すなわち襲撃した、と解釈することが可能である。つまり「彼の方」とは細川方と解釈でき、そうすると、その次の「しかるに一色、山名方へ罷り出で留守の間、屋形を焼き払い了んぬ」の部分も理解しやすくなる。すなわちここは、一色義直が山名方の屋敷などに出かけて留守であったので、襲撃した細川方は一色義直の留守宅に火をかけて焼き払ったわけで、一色義直は山名方に与する大名であったために、細川方によって襲撃され、その屋敷を焼き払われてしまったということになろう。まずは、<細川方>対<山名・一色方>という対立構図が読み取れるわけである。
・続く「その勢をまた打たんがため」というのは、山名方の一色義直の屋敷を焼き払った細川方を「打たんがため」という意味だろうから、焼き打ちに対する再報復のため、「山名(方)より垣屋」・「右衛門佐(方)より甲斐庄」・「武衛(方)より朝倉」の三部隊が出撃して、戦闘が本格的に始まった、と理解できよう。垣屋・甲斐庄・朝倉の武将名は、後の戦国大名の単元で登場する朝倉氏を除いて教科書には登場しないが、「右衛門佐」=畠山義就、「武衛」=斯波義廉は教科書における応仁・文明の乱の対立構造の図表などには必ず名前が載る人物なので、( )内の人名比定を活用して注目させておきたい。その上で、ここでは彼らがいずれも山名方として戦闘に加わっていることを読み取らせ、最後の「一番に京極勢、垣屋と戦うところへ朝倉馳せ向かいて追い崩し了んぬ」という部分から、山名方の垣屋・朝倉と戦う京極持清勢という構図が読み取れることから、四職家のひとつであった京極氏が細川方であったことを読み取らせたい。これにより、<細川・京極>対<山名・一色・畠山義就・斯波義廉>という、室町幕府の有力大名たちの対立構造が読み取れるということになる。
・しかし、この史料でより重要なのは、このような開戦時の状況に対する足利義政の態度である。別の項目でも述べたが、足利義政については、とかく「政治に無関心」「飢饉や戦乱に対して無策」といったネガティブなイメージが付きまとう。しかし、この史料で大乗院の尋尊は、義政が応仁・文明の乱の開戦時、「右京大夫(細川勝元)・山名(宗全)」の「両方」に対し「無為の計略を廻らし候へと仰せ付けらる」とはっきりと記している。応仁・文明の乱の発生に接した同時代の尋尊がこれを記していることはきわめて重要である。「無為の計略」とは何か、生徒たちにはぜひ考えてもらいたい部分だが、被害を最小限に食い止めて戦闘を終わらせるための方策というほどの意味である。そうした方策を考える(「廻らせる」)ことを、細川・山名の双方に「仰せ付け」たのである。室町幕府の頂点に立つ将軍として、その権力をないがしろにしようとしていた細川勝元と山名宗全という「部下」に対して、明確に監督者としての責務を果たそうとしていた、ということである。同時代の尋尊は、そのことをきわめて正当に評価し、自身の日記に書き留めていたわけである。
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