【概要】
・『大乗院寺社雑事記』は、奈良の興福寺大乗院門跡の尋尊(1430~1508)が記した日記。尋尊は関白一条兼良(1402~1481)の子で、記事は宝徳2年(1450)から永正5年(1508)までの50年以上に及ぶ(途中に欠損期間あり)。尋尊の筆まめな性格から、記事の内容はきわめて多岐に及び、室町時代後期の畿内周辺の政治・経済・社会・文化を知る上での基本史料。頻発する土一揆や大和の国人たちの動向、室町幕府の将軍・守護らや公家たちの動静などを克明に記録している他、応仁・文明の乱の状況についても、京都から伝え聞いた情報や大和国内への波及の状況なども詳しく記している。
・原漢文。『増補 続史料大成』に12巻本が収録。記主による自筆の原本は国立公文書館内閣文庫所蔵。なお、尋尊自身が記した「大乗院寺社雑事記」とは別に、尋尊が歴代の門主(住職)の日記などをもとに編纂した「大乗院日記目録」があり、正長の土一揆について「日本開白以来、土民の蜂起これ初めなり」と記した、教科書にもよく掲載されて印象的な記述は、後者に含まれる記事である(『増補 続史料大成』第12巻に収録)。
【授業で使う際のポイント】
・応仁・文明の乱は、応仁元年(1467)5月26日の明け方、東軍の細川勝元らの軍勢が将軍の御所(室町殿)を包囲し、西軍の一色義直の屋敷を襲撃したことで勃発した。以後、毎日のように京都の市街地のあちこちで、寺社や公家たちの屋敷が焼かれたり軍勢の陣地とされたりして、10月頃までは激しい戦闘が続いた。
・この記事は、そうした開戦直後の京都の状況を生々しく伝える史料である。冒頭の「随心院殿」とは尋尊の兄であり随心院門跡の厳宝で、弟に手紙を送って京都の状況を伝えている。これによると、戦闘の勃発により「家門」(尋尊らの実家である一条家)の「御迷惑」(ここでは困惑している、というほどの意であろう)が始まっており、それは「京中の売買」が麻痺し、「食物類」が「一向叶わず」すなわち手に入らなくなってしまったことにより起こっている様子がうかがえる。そしてこの状況は禁裏(天皇)も仙洞(上皇)も同様だという。
・また、二度ほど出てくる「御幡」とは、自軍が室町幕府の将軍を擁する“官軍”であり、反乱軍ないしは謀反人ではないことを証する旗のことである。記事では、これが西軍(山名方)に通じていると噂されていた「日野内府」(日野勝光)の手元に押し留められてしまったため、東軍(細川方)が「内府亭を焼き払うべし」と息巻いている様子が伝えられている。これに対し、「内府」は自身の屋敷の周囲に「堀」を掘って抵抗しようとし、それにかかる費用として「夫銭」を一条家にも賦課してきたという。ところが、この「堀」は屋敷の出入り口である「大門・小門」の前にも掘られてしまい、万一、屋敷に火を放たれて火災となっても中から逃げ出す道がなくなってしまい、「御生涯に及ぶべし」すなわち命を落としてしまう、と笑い話のような話が記されている。「珍事この事なり」という言葉に、パニックに陥る京都の様子が生々しく伝えられていると言ってよいだろう。「大門・小門の御前も日々夜々、合戦場なり」とあり、戦闘が毎日毎夜、目の前で繰り広げられている様子も綴られている点にも注意したい。
・この将軍家の「御幡」だが、捜索したにも関わらず、山名方(西軍)の一色義直が密かに持ち出していて、将軍の御所(室町殿)にはなかったようで、仕方なく細川方(東軍)では「俄にこれを織らる」すなわち御旗を新たに織って製作したという。官軍であることを証明する旗とはその程度のものか、とも思うがこれもパニックの一端を示しているとも言えそうだ。こうした状況の中で、「公方」(=義政)は、「今出河殿」(=足利義視)と「若君」(=のちの足利義尚)と一緒におり、筆者の尋尊には、その様子が「御迷惑の御風情なり」つまり困惑し、オロオロするばかりのようにみえる、というのだから、やや頼りなさげに映っていたようである。
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