『長秋記』大治二年十一月三日条 現代語訳①

四日庚寅
 寅の一剋(=午前3時から5時頃までの時間帯)に(私は)御所に参った。(私は)白織の襖を着ていた。(法皇?は)紫衣を着て出発なさった。[奥院に到着された事、]法皇(=白河)が乗った御輿が先行した。新院(=鳥羽)は歩きだった。仁和寺宮大僧正も皆歩きだった。長者の権僧正は、夜より(=昨晩から)奥院に詣でて(本院・新院のお出ましを)待ち申し上げていた。まだ松明を消していなかった。(一行は)奥院に到着した。(奥院の)橋の下より、本院は(御輿を降りて)藁履きを履いて歩いて奥院まで向かった。(奥院の)禮殿の南廂の東の一間と、同じく(禮殿の)母屋の二間を御所(=本院がいらっしゃるところ)とした。(御所に)御簾を懸けた。御簾の中に御座の茵等の(本院が座ったりするための)敷物を敷いた。禮殿の中央間の母屋に、供養の法壇を置いた。(母屋の)四面(=四方向=東西南北)に仏への供え物を置いた。(母屋の)四角に燈明をかかげた。供壇の巽(=南東)・坤(=南西)の方角に高座を立てた。その中央(=南)に禮盤(=導師が礼拝・読経する、仏前の高座)を二脚を立てた。母屋の東の一間の東辺に高麗端の畳を一枚を敷いて、法親王の座とした(之中分北、御所としたのは南だった。法親王の座は西面だった)。(母屋の)南廂の東の一間にも、同じく畳を一枚を敷いて、二人の権僧正の座とした(北西だった)。(供養をするための場所は)母屋の西の第一間と北廂、そして南に及んでいた。紫端の畳を敷いて、七僧の理修三昧の僧の座とした(七僧は皆山籠の僧であった。暗くて全員の様子などは詳しくは分からなかった)。
良禅阿闍梨を呪願とした。聖仁阿闍梨を導師とした(西に座っていた)。(母屋の)東廂の中央より南に、高麗端の畳を敷いて、上達部の座とした。(母屋の)西廂に紫端の畳を敷いて、侍臣の座とした。廟堂の大師は、その外の二つの壇に御燈明を置いた。他の人々はお供え物を器に盛った。禮堂の南から約二丈ほど離れた場所に行き、幔を引いた。その幔の中に軽幄を立てた。二つの壇上に(経を読ませたことに対する)僧への布施として、それをのせておく台を立てた。右衛門佐顕能が僧綱等の座を用意した。□□□[御]燈明、(私は、法親王に)「御諷誦に際して別の導師をして、(仏に)申し上げさせるのがよいか。それとも、御経供養に続いて同じ導師がその役割を兼ねるべきだろうか。もし役割を兼ねるのであれば、御経供養の前後はどうなるであろうか。」と尋ねた。法親王が答えて言うことには、「別の導師にやらせるわけにはいかないです。御経供養に続いて御諷誦をするべきであります。法会の順序・やり方は導師たち皆心得ていることであります。」とのことだった。御経供養の法要で使う散花(=紙製の蓮華の花びら)を花筥に分けて入れた。殿上の五位が花筥に入れられた散花を手に取り(禮堂の)南縁に立った。御経供養が終わって、理修三昧行道が御経供養に続いて行われた。一連の行事が終わって(本院が)布施を与えなさった。本院の布施は民部卿に、新院の布施は左京大夫に与えられ、(左京大夫が)これを受け取った。戸部(=民部卿)は導師料(=導師を務めた事への褒美)として(布施を)良禅に与えなさった(一の座の者であった)。顕能がそれを取り返し御導師(=聖仁)に与えなさった。そのほかはは、順番にこれを取った。私は、一の座の良禅がとるべき布施を取った。僧綱等も前に倣って布施を取った。戸部は、□□日法眼に与えられたそうだ。諸卿以下は各々解散してしまった。上達部は布施を取った。
上達部が布施を取っていた間、禮堂の北庭で、御塔木作を始められた。忠盛朝臣が行事を務めた。(忠盛朝臣が奉行として)高野山の木を切って御塔木作の材料を調達した。住僧等の要望により、「廟堂に御塔を造立せよ。」との御願が有った。権僧正が庭に降り、廟堂に御塔を造立するということを(神仏に)啓白した。(庭に)半帖を敷き磬臺等を立てた。但し意見があったので本堂は壊さないこととした。「本堂の上に御塔を造り、(本堂を)覆うのがよいだろう。」ということだった。また「この場所に元あった三重塔は、野火の為焼亡してしまった。其の後一間四面の堂を作った」とのことだった。この間空が漸く明け暗い空が明るくなってきた。事が終わって(本院は)帰りなさった。来た時と同じように橋を渡った後、本院の御輿が移動している間、顕盛朝臣が御輿をお支えし申し上げた。(本院は)辰の始め(=午前七時頃)に中院の御所に帰りなさった(=到着なさった)。前々から決まっていたことは、直接御影堂に到着する予定だった。しかし突然、決まったことを改めて目的地を変えた(=中院の御所に向かった)。本院からのお手紙には、「(私=本院は)以前、御影堂を奉禮したことがある。また(私=本院は)前年も奉禮したのだ。」と書いてあった。また、「今日(御影堂に奉禮している本院=自分の)どこにもすれ違う人がおらず、人々が奉禮しないことは、どういうことだろう。」と書いてあった。(それに対する)新院の御返事は、「ただ本院の決めなさることに従うだけです。」とのことだった。
 (新院が私に)内密に仰せられていうことには、「高野山に詣でる人は、必ず御影堂を奉禮するらしい。しかし(本院が)理由もなしに奉禮することをやめた気持ちは理解しがたいけれども、(私たちは)ひたすらに(本院の)決めたことに随うのみのため、あれこれと申し上げないのだ。」とのことだった。(はたして本院には)いやいやながらも、御影堂に奉禮に行ったが、誰も奉禮の人がいなかったことに対して、ご機嫌を損ねることがあったのだろうか。顕能が人々に(本院の命令を)伝えて言うことには、「早く束帯を着て参上しなさい。御影堂において奉禮はしなくてよい」とのことだった。この間新院はまだ藁履きを脱がないままで、縁に尻を懸けて座っていらっしゃった。私たちは堂上に昇らなかった。宿所に退下した。[西御塔食を供えた事。]食仕が(食事の準備を)まだ終えていないと人が告げたということらしい。
 両院が西御塔に御幸なさった。本院は輿に乗られた。新院の御車の後ろに列する歩行は、民部卿(藤原忠教)と侍臣二、三人以外いないとの事だった。これに驚いて急いで参じたのだが、泥濘がひどく上手く歩けなかった。この為に襪を脱ぎ、改めて靴を履き参上した。堂上に上ってから襪を履いた。御所方に参じて、僧が行列を成す間に西南の座に座った。御塔の東面を御所とした。南・西・東の三方の戸には御簾を懸けた。その(御簾の)中の事は見えなかった。両院・法親王はその中に着座された。(塔の外側の)坤(南西)の方角の角にある簀子敷の南面に公卿座を敷き、西面に侍臣を敷いた。堂の童子座は東面にあった。簀子敷の内の戸内に供養法檀を設置した。東庭幔門から堂の南階に至るまで筵道を敷いた。幔の外から集会所に至り、そこで板を打ち敷いた(脱履に準え、集合場所とした)。(西御塔内に吊られている)盖具と御塔の寶幢を手に取った。冣勝寺に借り渡されるものである。当初から府・諸大夫が促して準備された。 
 この御塔の起こりは、新院が参詣なされた時の御願である。越中守公能が(指揮を執って?)造立した。当然(公能も?)共に参上して勤賞に預かるはずだったのだが、侍従の中納言が亡くなられた為、一族が全員(自宅に?)留まる事となった。この為に参仕できなかった。しかし、布施・供養は普通国司が担当する仕事である。(今回は)式部大夫友兼が公能家の沙汰人として、全てのしつらいの装束・荘厳の供具はどれもやり過ぎな豪華だった。
御塔の四面に纐纈の幔を引き、庭中の少し東側に進んだ所に御誦経の幄があった。
 公家両院はそれぞれ案を置き上に布を積んだ。法螺持・幡鐃鉢散衆・持金剛衆の行列は通例通りだった。散衆二十人、中為□□□覺阿闍梨、林覺が上首となった。行道は塔中に道が無く、簀子敷を道とした。法親王と共に阿闍梨・山籠等が共に勤仕した。この役は、散花・堂童子は家成、経雅、重利、範隆が共に勤仕した。
 (勤仕が)終わって、御誦経使左少将忠基朝臣(帯剣していなかった)が、顕盛朝臣を介してその詳細を奏上した。(民部卿が)公卿を座末に呼んで禄を与えた(圓座を準備しなかったのでただ座末に控えた。戸部が言うには、雨で濡れていても形式通り奉拝するのが正しいとの事だった。私は雨で濡れている時は奉拝する事は無いと述べた。これにより、戸部は奉拝する必要の無い旨を示した)。
供養が終わって諸卿が布施を取る際には、蔵人が当然布施を渡すものだ。だが、今回は六位の者が一人も参じなかった。よって主典代が布施を渡した。散衆二十人全員が布施として被物を受け取った。
 民部卿が仰せを預かり、導師(聖仁阿闍梨)□法眼源覺を権少僧都に任命した。導師は恭しく膝を屈してそれを承った。源覺に(その事を)示した。僧が退出してもまだ事が始まらないまま、朝隆が導師への祿として法服・布施を用意してこれを準備していたのだろうか。民部卿が行事判官代朝隆に仰る事には、法服のみを先に導師に下賜するものだ。だが、布施と共に導師に下賜しようとするのは大変にけしからん事だ。だから早く導師に (法服のみを)下賜しなさい(との事だった)。朝隆はこれに随って、(法服を)持って衆会所に向かい導師に下賜した。しかし民部卿が顕保朝臣を介して(殿下に?)この事を奏聞した。なので朝隆を呼び出し事の詳細を問い質されたとの事だった。後々に朝隆と会話した際、「この事は奏聞するような事ではありませんでした。(法服と布施を同時に下賜しようとした事については)自分が誤ったと思い、もう遅いとは思いながらも導師に下賜しました。民部卿が驚かれたので、(その指示通りに)まだ事が始まらない内に先に(導師に法服を)下賜したのです。ですが、これはわざわざ奏聞に及ぶような事ではありません」との事だった。かなり(民部卿を)恨んでいるのだろう。今日から供僧を任命して供養法が執り行われ始めるとの事だった。また、僧五十人によって尊勝陀羅尼を百万遍執り行うとの事だった。

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