『長秋記』大治二年十一月四日条 現代語訳②

 次に(両院は)東の御塔に渡御した。〈本院(=白河院)は御輿、新院(=鳥羽院)は徒歩であった。〉この御塔は長吏権僧正(=勝覚)によって、本院の御祈所として造立された。(未設置の)九輪の鐵や尊勝不動尊・降三世明王を其の中に安置した。西庇の南の端を御所とした。其の東の簾の外に法親王が控えておられた。導師権僧正は輿を下りた、散衆の山籠は十人で幕の外に並んだ。しかし進み出はしなかった。(藤原)顕能が事情を尋ねたところ、二人の法螺吹のうち一人がまだ来ていなかった。そのため(彼を)待っていたそうだ。顕能はそこで(他の散衆を)連れてくるように命じた。そこで別に散衆五人が参上し、仏前の東側に並んだ。持金剛衆五人は右回りに一周した。(顕能は、)「人々は三周しなければいけない事を知らないのだろうか。皆で行道すべだ」と言った。しかし僧等は故実を知っていたため、其の命令に従わなかった。
 僧正が使を通じて私に、「御影堂において、両院は贈物を進上すると理解している。しかし御影堂では礼拝されていない。そのためこの度はどこに供えるのが良いであろうか。」と聞いてきた。(それに対し私は、)「この御塔で進上されるのが良いでしょう。(この塔は院)自ら造立された塔ですので、ここで祈りなさるのが良いでしょう。」と答えた。散花の際、堂童子は(藤原)経隆・(藤原)経雅・丹波守(藤原)家成らが務めた。件の両塔は御願文があるので、(院自ら)御願の趣旨は仰らなかった。導師の権僧正は以前(院に)、「ご自身で御塔を造立されましたので、御願を供えるのが良いでしょう。そこで布施を渡して供養しましょう。しかし自ら供養するのはとても憚りのあることでございます。なので御導師は他の人が奉仕すべきです。」と奏聞した。このため上皇は法親王に(御導師を務めるよう)頼まれた。しかし(法親王は)長旅の間、略装だと知りながら旅路に随っていた。急にこの役を務めることは、都合が悪い。そのため(法親王はこの役を)務められなかったそうだ。したがって僧正が(御導師を)務めた。
 供養が終わって布施があった。僧正が進上した導師の被物二領のうち、織物一具を散衆に、布施一領を□□に、一領につき一褁を副えて与えた。民部卿以下が順番にこれを取った。〔弘法大師袈裟の事〕次に僧正が贈物(=布施)を進上された。本院の御料の三衣を弘法大師の袈裟筥に置いた。また巨勢金岡の絵様を錦でこれを包んだ。貫玉を作り、それと共に伝えた。聞いたところでは、(錦は)日ごろ別紙に記して筥の中に納めていた。塔東面の戸でこれを取り、御所で進上したという。次に新院の贈物があった。(贈物は)弘法大師の御自筆十八通であった。黄の錦で(これを)包んだ。(錦は)白金で装飾されていた。僧正が往復するのは大変である。そこで私がこれ(=贈物)を取って僧正に渡した。(僧正は)それぞれ自ら(贈物を)取りなさった。(藤原)顕盛を呼んで(僧正に)本院の御料を与えた。(また、)(藤原)顕能を呼んで新院の御料を与えた。次に御所に還御された。(院は)「皆々早く布衣に着替えて参仕せよ。大塔を参詣する。」とご命令なさった。そのため急いで私は参上した。両院もまた塔に渡御された。その儀は前と同じであった。
 大塔の南側に御輿が連なっていた。階に高く御輿を傾けた。私は「階から上り下りする時には、(御輿を)腰の横に担ぐのではないか。」と申した。しかし今回は階の正面から担ぎ上った〈上皇のご命令であったという。〉〔大塔にて高照寺愛染王御念誦百萬反を始められた事〕(大塔に両院が)入りなさった。この南面の戸中を御所とした。両院は内戸の外の御屏風にお出ましになった。御座を戸中の左右に敷いた。招かれた山籠は百人であった。東西に分かれて座っていた。各々五十人に分かれていた。尊勝愛染明王の御念誦、今夜から百万遍唱える予定である。□□山籠良禅が発願した事だ。後に布施が与えられた。(布施は)小袖一領・綿二十両・白布五端であった。(それに)導師の料であった装束一具・直垂一領を加えた。公卿・殿上人が往復してこれを取った。(殿上人の)人数が少なかったため、閑処で寺領の法師もこれを取った。このほかに莚・敷皮、米・鹽・和布類が多く与えられたという。これらは近臣の受領が各々進上したものであった。

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