『長秋記』大治二年十一月三日条 読み下し②

 次いで東御塔に渡御す。〈本院御輿、新院歩行、〉件の御塔、長吏の権僧正、本院御祈所に造立せらる也。九輪の鐵、尊勝不動尊・降三世を以て其の中に安置す。西庇南の妻を御所と為す。其の東の簾外に法親王候じ給ふ。導師権僧正輿を下りる。散衆山籠十口幡外に行列す。然れども進出せず。顕能子細を相尋ねるの処、二人の法螺吹中一人未だ参らず、仍って相待つと云々。顕能即ち引くべきの由示し遣す。仍って別に散衆五口参る。仏前の東方に群列す。持金剛衆五口、右遶うにょうそうす。人々子細を知らず。皆行道すべしとてへり。然れども僧等故実を知り其の命に随はず。
 僧正、使を以って下官に示して云はく、御影堂におひて、両院贈物を進らすべきの由、存ぜしむる所也。而るに影堂に礼せしめず、今において何処において供うべけんや。答へて云はく、此の御塔において進らし給ふべき也。手自ら造る所の塔也。尤も此の所において祈らしめ給ふに便宜ある歟。散花の間、堂童子経隆、経雅、丹後守家成等也。件両塔、御願文有るに依り、御願の趣を仰せず。導師権僧正兼日奏聞せられて云わく、自身の造る御塔御願を備ふべし。仍って布施供養を設けん。而るに自供養の條、尤も憚るべし。尚御導師において、他人奉仕すべしとてへり。是に依り上皇、法親王を請わしめ給う。然るに行路の間、省略を存じ羈旅に従ふ所也。俄かに此の役を勤仕す。事において便無し、仍って勤仕する能わずと云々。仍って尚僧正奉仕す。
 供養了りて布施。僧正進らす所の導師被物二領の中、織物一具散衆、一領布施□□一領一褁を副え給ふ所也。民部卿以下次第に之を取る。〔弘法大師袈裟の事〕次いで僧正贈物を進らさる。本院の御料、三衣弘法大師の袈裟筥に置かしむ。又巨勢金丘の絵様、錦を以って之を褁む。貫玉之を作り、相伝ふ。日来別紙に注し筥中に納む。塔の東面の戸において之を取る。御所に就き進らさる。次ひで新院の御送物、大師御自筆十八通、黄の錦を以って褁む。白金を以って付す。僧正往復に煩ひ有り、仍って下官之を取り僧正に伝ふ。各自ら取り御ふ。顕盛を召し本院の御料を給ふ。顕能を召し新院の御料を給ふ。次ひで御所に還御す。仰せて云はく、人々早く布衣に改め着し参仕すべし。大塔を詣でしめ御ふべき也。是に依り忩ぎ下り乃ち参上す。両院又塔に渡御す。其の儀前の如し、大塔の南面に御輿を䡨す。階に高く御輿を傾ぐ。下官云はく、階より上り下る時、横に荷ふべき歟。然るに只階に向かい荷ひ昇る〈上皇の仰せと云々〉。〔大塔におひて高照寺愛染王御念誦百萬反を始めらる事〕、入御す。件の南面戸中を御所と為す。両院内戸の外の御屏風に御出す。御座を戸中の左右に敷く。屈請の山籠百口、東西別に居す。各五十口に分かつ。尊勝愛染王の御念誦、今夜より百万遍を満たすべし。 請カの山籠良禅発願す。後に布施を給ふ。小袖一領、綿二十両、白布五端、導師料の装束一具、直垂一領を相加う。公卿・殿上人交わりて往反し之を取る。人数少なきに依り、閑処において寺領の法師之を取る。凡そ此の外、莚敷皮、米鹽・和布類巨多也と云々。是近習の受領各進らしむ所也。
 次いで新院薬師堂に渡御す。東の階より昇る。御座に着す。正面の戸の中に御座を儲く。御燈明を供ふ。元の支度、良禅を以て御燈明の導師と為すべし。而るに東御塔に候じ参る能はず、仍って山籠の行賢を以て導師と為す。[新院□薬師御念誦百萬遍を始めらる事、]此の御寺において薬師御念誦百萬遍を満たすべきの由、又僧五十口を仰せらるなり。供料の外小袖一領を賜ふべし云々。西塔の請僧の施物少なし。東塔の梵侶の供物多し、只北縣に在りて南縣を望むが如し、権僧正参らる。やや久しくして大塔に還御す。両院戸を閇じ籠居す。上卿敷皮に祗候す。漸く亥の刻に及び、時に風霰相交わる。苦寒甚だし。伝へ聞く、本院御自ら行ふ咒遍に限り有り、其の了り御ふを待つの間此の時に及ぶと云々。遍く子の時に及び還御す。宿所に退下し□就寝す。今夜の暁鐘已に報す。驚きて朝膳を催す。且つは衣裳を着す。鶏鳴の間御所に参る。人々皆参ると雖も、天明を待つ。
 暫く出御せず。山路嶮難、樹陰暗然、仍て事の煩ひ有る故なり。此の間御前に候ず。東方白む間出御す。今夜房主圓如房来談の次いで、相尋ねて云く、「入定全て警蹕を停めしめ、鐘皷の音響を止む。而して其の上塔婆を造営すること其の憚り無かるべきか如何」。答へて云く、「山僧等相議して云く、『此の山の根本三基の塔なり。其の中二基において、二帝の御願に依り造り畢り供養す。山徒の大慶是を過ぐべからず。今度の御廟塔尤も然るべし。造作の間の憚りにおいて、是新儀に非ず。大師御入定の後、実恵僧都彼の塔を造らる。又野火の為塔已に焼ける。後に年序を経るの間、其の旧跡を尋ね、此の小堂を立つ』とてへり。造作の條全く憚り有るべからざるか。就中修理の時、堂中に入り見御ふの処、全く事を恐るべからず。故何となれば、堂の中央間是御廟壇なり。其の上方丈に覆ふ磐石は、事において侵損すべからざるか」、と云々。
 今朝新院仰せて云く、「廟堂の上塔を立てらる事、本院の叡慮未だ一決せず。故何となれば、造立の事の御願已に了んぬ。必ず事を果たさるべきなり。而るに旧堂を破り更に大造を致す事憚り有らば、本堂の上重ねて塔を立つべきの様、思し食し成さる所なり」、とてへり。下官奏し申して云く、「御堂入道此の山に詣づの時、山僧等の懇請に依り、廟塔を立つべきの由沙汰有りと雖も、仁海僧正憚り有るべからざるの由詳しく申さず。仍て田地を寄せらる、塔婆を立てざるの由、伝承する所なり」
裏書に云く。
御装束の事、北庭に在るべきの由、本院の仰せを蒙る。夜前判官代朝隆奥院に参る。而るに夜雨に依り禮堂に奉仕す。上皇尚ほ北庭に在るべきの由、御気色有りと云々。且つは是法皇第二度の御参詣、(寛治五年、)禮堂に高座を立つ。是に依り、山籠良禅、琳賢等、彼の例を逐ひ堂中に立つと云々。

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