『都落記』

・現代語訳(抄訳)

 ①
 「将軍足利義視公(大智院殿)親筆一巻 義視公都落記 当人の自筆である」
 「元禄五年(一六九二)中林七左衛門の仲介で加藤勘左衛門に届けられたものを披見したところ、  確かな価値をもつものなので九月廿六日に購入した。木村見室は義視公の自筆と鑑定し、畠山牛庵  は聖護院道興の筆と鑑定した」


 応仁元年(一四六七)五月二十五日の夜、政情がいよいよ悪化する状況となってきたため、室町邸へと参上し、七月十三日まで滞在したものの、東軍・西軍の合戦が日々繰り返されるばかりで、御所の中は静かであっても、女中(日野富子)の機嫌も悪く、これでは室町殿(義政)もきっと気詰まりであろうと察し、あれこれと思うこともたくさんあったが、まずは暇乞いをして自邸へと帰ってきた。その後八月の半ば頃から、次第に物騒な情勢になってきたため、八月二十日の夜、室町邸へ祗候するつもりで、馬に鞍を置かせ、供の者たちには具足(武具)を着用させ、私自身は小具足のいでたちで途中まで出かけたのだが、「思うところがあって室町殿と一度話したいことがある」と言って細川右京大夫勝元が(私=義視を)室町邸に入らせないようにしたため、どうしてそのようなことをするのかと詳しく聞いたりしたものの、その夜はいったん自邸へと引き返すことにした。その後、方々から勝元が私(義視)を捕らえるなどという様々な噂がひっきりなしに耳に入ってきたので、「もはや私の力ではどうにもならない、ここで自害しよう」と思ったが、「やみくもに無益なことをしても、室町殿(義政)の役には立たず、忠節にならないので詮無きことです。何とか御身だけは全うされるのがよろしい」と近臣たちが諫めるので、「それはそうかも知れない」と思い直し、同八月二十三日の暮れ頃、室町殿(義政)への手紙を書き置いた。その文面には、「このような時に側近くにお仕えできないのは本意ではありませんが、あなた様のためを思って身を引くことにしました。あなた様に対して、まったく二心はありません。私の居場所については追ってお知らせします」と書き記した。その夜、今出川邸(義視の自邸)を出て、北畠前中納言を頼る心づもりで、東をめざして下国したのである。
     (中略)

(九月)十三日の夜は、宿の近くの浜辺に出て名月を楽しみ、酒もあったので都のことなどが思い出され、
   伊勢の浦の波に浮かぶ月を見ると
   都で見る月の後の名を思い出さずにはいられまいよ
などと道理にかなわぬ口ずさみなどをした。十六日には平尾を出立して、伊勢国丹生という所にある薬師寺という寺を借り、そこを在所と定めた。この地から急いで室町殿(義政)に(自分の居場所を)報告しようと思い立ち、詳細に手紙をしたためて、同二十一日にはそれを京都へと送った。その文面には、「北畠前中納言を頼りに(下向し)、その領内にある粗末な山寺のある所に辿り着きました。思いも寄らぬ旅であったので、恐れながら御推察に過ぎる様子です」など、何ヶ条も書き上げたが、すべてを書き切れないので、以下は省略する。
     (中略)

さてさて、いつまでこのようなことが続くのだろうかと思っていた頃、十月九日であっただろうか、室町殿よりじきじきのお返事が届いた。すぐに開いてみると、事細かで懇ろなお言葉が記されていた。「だいぶ心配していたが、(北畠)前中納言の領内に下着したとのことで安堵した」などの文章があり、(私=義視)に二心がない旨を本当によく見ておられ、そのことを喜ぶことすら愚かに感じられた。その後、早々に上洛するようたびたび(義政からの)ご命令があり、このことを(北畠)前中納言と相談し、すぐに上洛し忠節を尽くす由、お返事し、その準備も前中納言により進めていたが、青侍どもの妨害によって何だかんだと時間が打ち過ぎていってしまった。
                               (作成:高木徳郎)

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