『長秋記』天治元年正月五日条 語釈

  • 朝覲行幸:天皇が年の初めに太上天皇・皇太后の宮に行幸し、新年の礼をとり、あいさつに行くこと。朝覲とは、『周礼しゅらい』春官、大宗伯に「春見曰朝、(中略)秋見曰覲」とある。その行幸は儀衛を厳にし、御所に近づくと警蹕けいひつを止め、中門の外より天皇は御輿を下りるのを原則とする。嵯峨天皇が即位四ヵ月目の大同四年(八〇九)八月に行なったのを文献上の初見とするが、正月の朝覲行幸は仁明天皇承和元年(八三四)正月二日、淳和院に太上天皇を拝覲したのが最初である。太上天皇は喜んで迎え、おのおの、中庭で拝舞し、ともに昇殿し、群臣に酒を賜い、音楽が奏せられるなど、華やかな宴が行われた。左右近衛府がさらに舞を奏したのち、上皇は天皇に鷹などを贈物として献上した。天皇が帰るとき、太上天皇は相送りて南の屏の下まで行ったという。(―中略―)具体的な式次第は以下のごとくである。正月二日・三日・四日に行うのを原則としたが、吉日をえらぶ場合もある。天皇は后宮近辺に警蹕を停め、中門の外で御輿を下りる。近衛中将が神璽を持ち、輦戸を開き御剣を取り、しばらく沓脱の下で天皇が輦を下りるのを待ち、天皇が進み寄ると沓脱を昇り次将が先行するのを故実とする。早速昇殿して御剣は左を先にし、璽は右を後にし、上臈の将が御剣を内侍に授く。王卿は魚袋ぎょたいを着し、天皇が上皇ならびに皇后の御前に参り拝賀の礼をする。公卿は寝殿の御前の座に候し、一部の公卿は簀子、渡殿の座に二行に並ぶ。神祇官は門前で大麻を献ずる。このことは、後三条天皇以後行われなくなったという。雅楽寮は音楽を奏し、天皇は御靴を着す。宴があり、上皇が今上に単衣を賜うことなども宇多上皇から醍醐天皇への場合をはじめとして、しばしば行われた。天皇が上皇・法皇と二院または三院に行幸する場合もある。正月の朝覲行幸のほかに、元服後の朝覲行幸もある。(『国史』)
  • 二条殿:平安京二条南東洞院東に営まれた藤原教通の邸宅。教通は万寿二年(一〇二五)ごろから二条殿の造営に着手し、同四年秋に移徙、以後ここを本所とした。教通が「大二条関白」と称されるのはこのことによる。その後二条殿は、康平元年(一〇五八)・治暦四年(一〇六八)の二度の火災に見舞われるが、そのつど再建され、その間後朱雀天皇の皇居や後三条上皇の御所としてたびたび利用された。教通が没すると、同殿は彼の息男信長の邸となり、さらに十一世紀末には信長の女婿後二条関白師通の本所となっている。しかし、師通の死後二条殿は次第に荒廃し、保安元年(一一二〇)正月二十九日の火災では完全に焼失した。そして、この火災を契機に同殿は白河上皇領となったようで、保安四年(天治元年の前年―金久保注―)六月十日には鳥羽上皇の御所がここに新造されている。この御所は、その後長承二年(一一三三)から崇徳天皇の皇居となっていたが、保延四年(一一三八)二月二十四日に焼失した。なお、鎌倉時代に入ると、ここに後鳥羽上皇御所や二条高倉内裏が建設されている。(『国史』)
  • 駕丁(駕籠舁):駕籠をかつぐことを業としている人。かごや。おろせ。駕籠遣かごやろ駕丁がてい
  • 警蹕(けいひつ):声をかけてまわりをいましめ、先払いをすること。天皇の出入の時、貴人の通行の時、あるいは神事の時など、下を向いて、「おお」「しし」「おし」「おしおし」などと言ったもの。また、その声。けいひち。みさきおい。
  • 乱声:雅楽の舞楽で用いられる笛の調べの名称。新楽乱声(振鉾の時に奏する)、古楽乱声(迦陵頻・抜頭などの出に奏する)、安摩乱声(安摩・二舞および陵王の入りなどに奏する)など。古くは、行幸の出御・入御、相撲・競馬くらべうまなどの勝負、集会、その他のおりに奏された。らんせい。らんぞう。
  • 璽:玉に刻んだ印形いんぎょう。特に、中国では秦以降、天子の用いるもの。日本では天皇の用いる印章をいう。御璽ぎょじ。天子のしるしである三種の神器。特に、八尺瓊曲玉やさかにのまがたま
  • 龍頭鷁首:平安時代、園遊などの折、貴人の御座船とし、または伶人などを乗せて楽を奏させる船。二隻を一対とし、一隻の船首に龍の形、他の一隻に鷁の形の彫物をつけたり、その形を描いたりしたもの。特に平安時代から室町時代にかけて、皇室・貴族・社寺の行事などの際、泉池や河川で船楽ふながくを奏するために重用され、ふつう船差四人、楽人または舞人一〇人内外を乗せ、時には貴族の船遊びにも用いられた。りょうとうげきす。りょうとうげいす。りゅうとうげきしゅ。りゅうずやくす。
  • 棹郎とうろう船頭。船をこぐ人。
  • 蛮絵の袍:武官の随身ずいじん用の褐衣(かちえ)の一種。当色とうじきはなだに染めた布の欠腋けってきの袍で、蛮絵という獅子や熊、おしなどの円文を板に彫って墨摺りにし、威容をととのえて蛮絵の袍とよび、はれの出行の際に供奉する召具めしぐの装束にした。(『国史』)
  • 狛鉾(高麗鉾):高麗から伝来したほこ。また、高麗風のほこ。
  • 遣水:平安時代の寝殿造しんでんづくりにおいて、外から引き入れて庭園につくった流れ。当時の物語などでは、その流れを引いてつくった池泉のことも遣水とよんでいる。(『日本大百科事典』)
  • 近仗:宮中の近くで、その警衛にあたる者。近衛の武官。
  • 居筥すえはこ法会を行なう場所にすえ置く長方形の木製の箱。外側に薄い金属板を張り、内面は錦や綾の切れ、または紙を張ったものでふたはない。法会の時、導師の僧の左脇机に置き、表白ひょうびゃく、次第、経巻、説教の原稿などを入れるのに用いる。
  • 帛袷はこう置畳おきだたみの上に用いる白絹の裏付きの敷物。四方にちんし子を置き、天皇の御拝の座とする。
  • 鎮子:調度品の一つ。室内の敷物・帷帳・掛軸などが風であおられたり、飛び散ったりしないようにおさえるおもし。風鎮や文鎮など。ちんす。 
  • 拝舞:朝廷などで行なわれる儀式で祝意、謝意などを表わす礼の形式。まず再拝し、立ったまま上体を前屈して左右を見、これにあわせて袖に手をそえて左右に振り、次にひざまずいて左右を見、そのまま一揖いちゆう、さらに立って再拝するもの。左右を見るにあたって、天皇は右左右、臣下は左右左の順を追うので、見る際の作法を左右左さゆうさという。天皇では朝覲ちょうきんの行幸、臣下では叙位・任官または祿を賜わった時などに行なう。はいむ。舞踏。
  • 脇息:すわった時にひじを掛け、からだをもたせかけて休息するために使う道具。おしまずき。ひじかけ。
  • 三方:現在の宮内庁楽部を構成している三系統の楽人の旧称。宮廷直属である京都方(京方、北京方)のおおの、豊(ぶんの=豊原)、山井(大神)、安倍の諸家、奈良興福寺所属である南都方(奈良方)の上、奥、芝、辻、窪、久保の諸家、大阪四天王寺所属である天王寺方(大阪方)の薗、林、東儀、岡の諸家がある。三方の楽人。

〇人名

  • 摂政:藤原忠通のこと。当時、二十八歳。
  • 大納言経実:藤原経実のこと。当時、正二位行大納言兼按察使、五十七歳。藤原師実の子。ちなみに師実は、藤原頼通の子である。
  • 右宰相中将宗輔:平安時代後期の公卿。権大納言藤原宗俊の三男。母は左大臣源俊房の女。没年から逆算すると、承暦元年(一〇七七)の誕生となる。寛治元年(一〇八七)従五位下に叙され、近衛少将・同中将を経て蔵人頭に補され、保安三年(一一二二)参議に昇った。以後諸官を歴任して、保元元年(一一五六)右大臣に進み、ついに従一位太政大臣に至ったが、永暦元年(一一六〇)上表して官を辞し、応保二年(一一六二)正月二十七日出家、同三十日、八十六歳の天寿を全うした。蜂を飼って愛玩したので、蜂飼大臣とあだ名された(『十訓抄』)(以上『国史』)。当時、正四位下左中将兼近江権守、四十八歳。
  • 多忠方:平安時代後期の雅楽家。応徳二年(一〇八五)京都に生まる。雅楽の流派の一つ、京都方(がた)に属する多家の出身。父資忠すけただの第三子。父と長兄節方ときかたが殺されたため、多家専門の神楽歌や舞楽曲が断絶しそうになったが、資忠から神楽を伝授されていた堀河天皇が、忠方に伝え、宸筆の神楽譜を与えられたという。同じく多家の舞胡飲酒こんじゅは資忠の伯父政資から伝授されていた源雅実(一説に子の雅定)より返し伝えられた。雅楽の一者たること三十三年に及ぶ。
  • 内府:内大臣であった有仁ありひと。当時、正二位右大将、二十二歳。
  • 権右中弁顕頼あきより平安時代後期の公卿。権中納言藤原顕隆の長男。母は越後守藤原季綱の女、鳥羽天皇の乳母悦子(母を美濃守源頼綱の女とする異伝あり)。没年から逆算すると、嘉保元年(一〇九四)の誕生となる。天仁元年(一一〇八)従五位下に叙されて以来、出雲・丹後・丹波の守を歴任する一方、左衛門権佐・右少弁・右中弁・蔵人頭を経て、天承元年(一一三一)参議に昇り,さらに権中納言に進み、大宰権帥を兼ねたが、永治元年(一一四一)両官を辞し、民部卿に任ぜられ、ついで正二位に叙された。その間,鳥羽上皇の腹心として「内外権を執り、際会人に超ゆ」(原漢文)と評され(『本朝新修往生伝』)、公卿を辞した後も、重要な議事には参与した。久安四年(一一四八)正月三日、病により出家、五日没した。十三日、嵯峨野常磐杜の西北に埋葬された(『本朝世紀』)。歳五十五。その第宅、九条高倉第にちなんで九条民部卿とよばれ、その日記は『九民記』と称された(以上、『国史』)。当時、従四位下右中弁、三十一歳。

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