『長秋記』天治元年正月五日条 現代語訳

●現代語訳
正月
 五日 晴。(私は)午前八時頃に参内した。早くに(崇徳天皇は、)紫宸殿をご出発なさった。今回は初めて、(母后との)同輿の儀が無かったそうだ。(天皇は)烏丸から北に行き、土御門で東に曲がり、東洞院から南に向かって二条殿西門に到着なさった。御供の公卿や諸司等の多くは、次第に参加してきた。御輿は門の外に停めた。しかし摂政(=藤原忠通)の命令により庭の中(=外門と中門の間の庭)に入れた。〈前例では門外に停めていた。〉御輿を担いだ者たちはかけ声を止めた。神官は御麻を供えた。この間に公卿は、殿上前の屏風の南幔の外に東を上座にして南向きに並んだ。摂政は門内の南脇にお立ちになった。左右の大将はその東に立った。〈左大将が北側であった。〉その時、院別当按察大納言経実卿が列を離れて南に進んだ。西に向かって挨拶し、幕を張った門から中門を通って、天皇がご到着なさった旨を(白河法皇にヵ)申した。両楽は乱声を演奏した。按察は元の場所に戻った。諸司は幕の入り口を開けた。天皇が(庭から中門に)お入りになった。中門の内から(西)対代西庇の南向戸の近くに至った。敷物を道に敷いた。御輿を中門内に東向で安置した。
 左右将軍は中門の内に入り跪いた。右宰相中将宗輔は靴を脱いで進み、御輿の戸を開いた。草薙の剣を取って(天皇の)前に進んだ。(その時、)錦道は踏まなかった。(天皇の)西側に伺候した。次に摂政は、主上(=崇徳天皇)を抱きかかえ、(御休所の)長押の上(≒入口)に立たせ申し上げた。私もまた靴を脱ぎ進んで、八尺瓊勾玉を取り、天皇の御後ろの錦道の東に伺候した。天皇が(御休所)お入りになった後、内侍に(八尺瓊勾玉を)預けて退いた。弓を取って中門廊の戸から出た。靴を持ちながら弓を取った。この時、乱声の演奏が終わった。龍頭鷁首を拵えた二船が中嶋の南からやってきて、美しい音色を演奏した。左近将監狛光則は龍頭を拵えた船に乗り舞った。右近将監多忠方は鷁首を拵えた船に乗り、同じように舞った。船頭の童は蛮絵の袍を着ていた。(船は)数回ほど回遊した後、楽屋の南に着岸した。船を降り幄に入った。〈この楽屋は、南庭の池の中心にあった。(床として)板を構えその上に砂を敷いていた。東・西・南にそれぞれ朱の柵を設けた。その上に纐纈染で約二十一メートルの幕を張った。その北中央に太鼓を一つ設置した。楽屋の東西に鉦鼓を立て、その前左右に鉾を置いた。幕の北西に二つの狛鉾と佐保太鼓を設置した。池から北に向かって板橋を二つ架けた。(楽屋の)東側は左近衛の警備の者が配備していた東辺りであり、左舞はここから参上した。西側は池道に当たり右舞はここから参上した。〉
 音楽が終わった。この時公卿たちは殿上に控えていた。内大臣は呼び出され(白河)法皇の御許に参上した。(内大臣は)南の方から御簾の中に入った。居箱を取って、(白河の)御座の右方に置いて退こうとした時、上皇(白河法皇ヵ)は庇の西方から簾中に着座した。この御座は寝殿中央の母屋に設置されていた。(法皇の)御座が定まった後、内大臣はその場を退いた。摂政は参進して敷物を取り、主上の御座の上に敷いた。〈この御座は(寝殿)中央の間の庇にあった。敷物は母屋の西にあった屏風に掛けられていた。重石は左屏風の許にあった。摂政は笏を挟んで、敷物をお敷きになった。敷き終わると退いて、重石を取ってまた置きなさった。このおもしは犀の形で四つあった。両手で重石をお取りになった。(主上の)御座の四隅に東と西向きに置かれた。〉次に摂政が法皇のお気持ちを察し、天皇のもとに参った。(摂政は天皇に、今から法皇の許に)渡御しますと申した。主上は対代の東から出て、〈透渡殿に着いた時、摂政は裾を取り、(天皇に)お仕えなさった。〉寝殿西庇の南一間からお昇りになった。〈戸の脇で御笏を(天皇に)お渡しした。頭中将忠宗は御笏を予め用意して置いておいた。(天皇は)ゆっくりと東に行き御座に昇った。北に向き拝舞した。〈略式であった。〉法皇は感涙し涙を拭いなさっていた。儀礼が終わって(天皇は御休所に)還御した。
 法皇が(お控えの間)いらっしゃった。法服は白単の袈裟をお召しになっていた。内大臣は御簾を掲げなさった。次に内大臣は、居箱を取りお控えの間に入れた。置き終わると対代の南面に退きなさった。次に権右中弁顕頼が(母屋=拝舞の会場に)参り、法皇の御座を撤収した。そののち、西に面した御簾の中にひじ掛けを入れた。座布団・繧繝染の端畳(の事)。次に三つの役職を兼ねる殿上人五位らは南に面した簀子敷を経て東に向かった。繧繝染の端畳二帖をとって、法皇の御座であった所に(改めて)敷いた。顕頼は東京錦の座布団を取りその上に敷いた。次に新院が寝殿北庇の西向きの戸から出た。西庇の南側に入るとき、母屋から東に行き着座しなさった。〈南に向いていた。通季卿は御供として(新院の許に)控えていた。〉次に摂政が、(会場の天皇御座の)敷物や重石等を撤収し、元のように新しい敷物を敷いた。〈これらは元々御屏風に掛けられていた。(私からは)遠くて見えなかった。(後でほかの人にこの様子を)尋ねてみよう。〉次に(鳥羽の)御旨によって、主上が御拝に渡御した。その儀は前と同じであった。(終わって天皇は、御休所に)還御した。
 続いて、上皇(鳥羽上皇)が(御休所に)入御された。更に本の役人らが(会場に)参入した。上皇の御座を片付け、清隆朝臣・顕頼が母屋中央の間に紫壇地兀子を立てた。他の五位らが庇・御簾を垂れかけた。主上(崇徳天皇)が渡御し母后(待賢門院璋子)に奉拝なさった。その間の事を(私は)詳しく分からない。還御された後に聞いた所では、上皇の御座が置かれていた所に紫壇地兀子を立てた。下敷は赤地の錦だった。これは大嘗悠紀で使用するもので、借り渡されたものだった。皇后(皇嘉門院聖子)は末額を結び着御なさった。主上は御拝に白袷を用いられた。新院奉拝の時、主上の御座の帛袷等を片付けて本所に置いた。上皇の御座は繧繝二枚茵などであった。本の御座を敷いたのだろうとの事だった。上皇が(御休所から)出御された。法皇(白河法皇)は御簾の内にお出ましになった。(法皇の)御旨により上が渡御した。初めの道と同じだった。左宰相中将宗輔朝臣が剣を取り前行した。御座を東の方に置いた。
 主上が御座に定まった(御笏をお持ちになった)。私は璽を取り(主上の)後ろに控えた。御座定の後、御釼を西南に置き(この時内侍が釼・璽を持ち西対の御簾中に安置した)、太政大臣(源雅実)は東方から出て上皇御前の圓座に着した。
 摂政(藤原忠通)も天皇の側に留まり御前の圓座に控えなさった。御出の前に左右近が胡床を立てた。次将らは靴を着用して弓箭を帯びていたという。続けて摂政が頭右大弁雅兼朝臣を呼んだ。諸卿を呼び寄せよとの意向を受け、雅兼は退出して殿上の戸外に控えた。頭を振り返ったが、人々は応じなかった。戸内で右膝を折り「お呼びです」と言うべきだったのだ。(諸卿とは)右大臣、内大臣、大納言経実、能実、宗忠、能俊、忠教、中納言顕雅、実隆、通季、実行、顕隆、雅定、実能、参議宗輔、為隆、伊通、そして私達であった。この間に楽行事に命が下された。左は成通、右は重通(第二の座に着する者である)。勅命を承ってそれぞれが楽屋に向かった。左右共に乱声を演奏したたという。この間に按察大納言参議などが、早く東に廻って主上御膳を用意せよと言った。最初に公卿の衡重を用意したという。実は、早く主上の御膳を用意するよう院の仰せがあった。按察大納言(源経実)は笏で挟んで打敷を取った(この打敷の面は白地の錦衣、袷が表、金銀銅の薄文があった)。続いて盤六本、見た目が美しい様々な料理が玉のように盛られていた。ご飯は白玉(の形?)に盛られていた。参議四人と蔵人頭二人がこれを取った(六位の蔵人らに伝えて之を授けた)。
 宗輔が退き御汁物を取った。進んで折敷を置いた。続いて私が御酒の盞を取った(予め折敷を置き、私はただ盞を取って折敷を取らずに参じた。陪膳に盞をお渡しして、蓋を取って退いた。後で聞いた所では、諸卿が私に、折敷に置いて渡すべきだったと非難したようだ。この非難は全く適当ではない。その御酒盞の底に丁子を入れた。前例では?(折敷に)置かずに帰られたのだ。よって暫く寝殿南妻にてご意向を伺った。太政大臣(源雅実)の意向は「直ぐに用意せよ」との事だったのでお持ちした、)伊通は御銚子を持ち後ろにいた。但し入れずに持って帰った。
 私が退出する時、法皇が仰るには、「院の御前の物を早く用意するよう行事に伝えよ」との事だった。これを顕頼に伝えた。陪膳右衛門督が弓箭・釼などを片付けた。老懸は未だ冠に付けられていた。笏を装束に挟み打敷を取って進んだ。紅梅織物の打敷の上に高坏を置き直した。打敷の面は綾物、様器は総じて六本で、実物などが盛られていた。経忠朝臣、行宗朝臣、敦宗朝臣、有賢朝臣、清隆朝臣、忠能朝臣らが役を勤めた。
 頭弁雅兼が密かに非難して言う事には、「近衛次将軍らがこの役を勤めるべきである。この間に地久(役の者が)進み出て跪いた。膳を用意し終わって舞に立った。膳を供える間は警蹕を行わなかった。この後小要事が行われ、たちまちに退いていった」との事だった。公卿の座には勧杯が無かった。太政大臣と摂政の座席が狭かったためである。続けて奏舞が行われた。事が済む間に、殿上・五位らが東方から御遊具を取って役を勤める人々の前に置いた。笛(上皇)、筝(摂政)、琵琶(内大臣)、笙(雅定)、拍子(宗忠)、副音(通季、実能、宗輔)、篳篥(敦兼朝臣)、和琴(有賢朝臣)だった。これより前に掃部司が南階西腋に座を敷いて、召人はここに座ったとの事だった。この間、本院の引出の御馬三疋を、成通、重通、忠基が引いた。後縄? 近衛官が一両を廻らして中門から馬を引き連れていった。続けて新院(白河)引出物の御馬三疋、宗能朝臣・実衡・公発が引いた。続けて贈物、按察、治部卿、民部卿が北面に廻って受け取った。御手本御琵琶は錦褁に入っていた。御琴は褁に入っていた。事が済む間本院が様々な祿を与えた。摂政には織物・細長があった。太政大臣がこれより前に退出した。事が終わって早々に退出したので、公家院司から公卿八人が祿・白掛を賜った。
 諸卿が退座した後、対の屋の代わりの建物の南面において、摂政(藤原忠通)、右大臣(藤原家忠)、内大臣(源有仁)が叙位について話し合いを行われた。その様子は、対代南廂の東側の一軒の北辺部分に菅圓座一枚が敷かれ、そこを摂政の座とされていた。南面部、その西南部に同じく圓座二枚が敷かれ、右大臣と内大臣の座とされていた。北側の東面は、摂政の座の前に一枚が敷かれ、そこを執筆参議の座とされていた。参議の座の東北部に切燈台一基を立てられた。蔵人等が圓座や切燈台を準備していた。摂政、右大臣、内大臣が順に着座した。続いて左大弁為隆(藤原為隆)をお呼びになり、為隆が着座した。次に(為隆は)実親をお呼びになった。五位蔵人実親(平実親)がやってきて簀子敷(=敷物)を敷いた。為隆が硯と紙を持って来いと仰ったので、(私は)柳の箱に(硯と紙を)盛り、その箱を持ち参った。(盛った紙は一巻だった。前例では二巻だった。失敗であった。)為隆は、この巻を取り叙位次第を巻き返した。(後に聞いたところでは、上皇(鳥羽上皇))が「尻付(=該当人物についての注)は付けた方がよいのではないか。」と仰ったところ、為隆は「前例では尻付はつけておりません。」と言ったそうだ。よって尻付は付けられなかった。)叙位の名簿を書き終わって、右大臣は内記を召し叙位を下付なさった。後に聞いたところでは、従三位に藤原経忠(新院(鳥羽上皇)の別当)で、正四位下に高階宗章(本院(白河法皇)の別当)であったそうだ。(上臈の別当二人である。顕重(源顕重)・有賢(源有賢)等の位階を超越した)。従四位下に藤原顕頼(弁官の上の師俊(源師俊)の位階を越した)。別紙には女の叙位が書かれていた。従三位に藤原公子(按察女房、藤原公実の娘)で、従四位下に藤原隆子(当今(崇徳天皇)の御乳母であり、宗俊朝臣(藤原宗俊)の妻である)、源任子(姫宮の御乳母の代わりで、子良圓の娘である)である。続けて書かれている二通の事(男の叙位の事と女の叙位の事=人事の内容)が書き終わって、諸卿が(南庭に)下り立った。御輦が南の階に連なって並んでいた。御輿には中引き(=几帳のとばり)があった。広い部屋であったために、寝殿に簀子敷を設置した。(崇徳が)皇后(待賢門院璋子)とお二人一緒に同じ輿に乗ることになったため、摂政以下は退下した。次将が一人昇殿し御簾を垂らした。格子を下ろさなかったという。数刻の後、主上が中引きの内に入りなさった。この間御輿の中から薫爐が落ちた。下官(私)は下馬して薫爐を取り、随身に持たせた。しばらくして上皇が大炊御門大路において御見物なさった。続いて(崇徳は)本路(来た道)を通って宮(内裏)にお帰りなさった。(その間、崇徳は御輿の中で)お休みに成られたため、格子を下ろした。宰相中将は剣璽を取り内侍に渡した。御輿が退いた後、下官(私)は急いで列に加わった。続いて名謁が行われた。従三位経忠(藤原経忠)が参議の上に加えられた。(経忠が私に)話して言うことには、「(鳥羽)上皇から御装束を賜り、それを着用しているのだ。模様が施されている有文の帯であった。」ということだ。
裏書に云く、
 後に聞いたところでは、上皇の御座が置かれていた所に紫檀地兀子を立てたそうだ。下敷は赤地の錦であり、それらの物は大嘗会悠紀で使用するもので、前もって借りてあったものだった。皇后(皇嘉門院聖子)は末額を結び着御なさった。主上は御拝に白袷を用いられた。(崇徳が)新院を奉拝する時、(欠字)、新院本院の楽の間の御座は皆御拝の時に用いられた(ものを用いた)。(欠字)、採桑老は、康和のころに多資忠が山村吉貞のもとに参り殺害したため(書き下し通りだとこの訳だが、事件のことを考慮すると→多資忠のもとに山村吉貞が参ったため=殺害したため)、その後は京の舞人でこの曲(採桑老)を知る者はいない。しかし天王寺の舞所公定(藤原公定)はこの曲(採桑老)を伝習したとの噂があった。そこで去る十二月ごろに彼(藤原公定)を京都に呼び(他の舞人たちに)伝習させた。舊きを尋ねて新しきを知る。このことは聖代の恒典である。誰も知っている人がいないこの世の中で、何とか舞の形を探り当てて、採桑老を習得したのだろう。(彼は)装束黄の直衣を着ていた。ただし、竹葉を挿していないのは、どうであろうか。各々は故事を知らない者の所業である。黄色の上衣はひどく劣ったものであった。

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