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  • 『経覚私要抄』寛正二年二月七日条

    ・読み下し文

          (中略)
    一、楠葉新右衛門語りて云わく、去る月十八日夜、室町殿の御夢に普廣院殿、束帯にて御枕に立たしめ賜いて云わく、吾存生の時、罪を犯すことこれ多きにより、受苦の事、一に非ず。しかるに又善事を沙汰することも多端。これにより重ねて将軍を生かすべきものなり。それにつき只今、乞食多く以て餓死に及ぶ。吾、苦を助けべくんば、かの乞食に施行をして悲しみを助くべきかの由、分明に申あると覚えて御夢覚め了んぬ。これにより願阿という者に仰せ付けられ、六角堂の辺りに一町分の渡り屋を立てられ、乞食を悉く入れ置かれ、大釜をあまた塗られ、雪水をして毎日これを引かる。日々分千五百疋、夏時分に至るまで、御沙汰あるべしと云々。有り難き御夢想なり。廣大の御利益にあらずや。尊ぶべし尊ぶべし。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『都落記』語釈


    …社会の動向、時勢(「日国」)。ここでは同年正月の御霊合戦後の不穏な情勢が続いていることを指していると思われる。この五日前に東軍・西軍がそれぞれ細川邸・山名邸に召集され、翌二十六日に応仁の乱の戦端が開かれた。
    しきる…度重なる、頻繁になる(「日国」)
    女中…大藪海氏はこの「女中」を「日野富子のことであろう」としているが、とくにその根拠は示されていない(大藪海『応仁・文明の乱と明応の政変』)。
    世以外に成しかは…この頃、大内政弘が西軍に加勢するために上洛をめざし、摂津国付近で東軍の細川勝元勢と小競り合いが生じていた(『史料綜覧 巻八』)。
    今出川…足利義視の自邸があった場所。
    北畠前中納言…北畠教具


    おもはすよ…以下の和歌の解釈は暫定案。
    すちなき…「すじなき」か。不条理な、道理にかなわない(「日国」)
    ふしきの山寺…ここでは「並ではなく粗末なこと、卑しいこと」(「日国」)の意か。


    前中…北畠前中納言(教具)のこと。
    青侍共の違乱…具体的なことは不明ながら、義視・北畠の上洛を阻止したい勢力の存在が指摘されている(大藪海『応仁・文明の乱と明応の政変』)。

  • 『都落記』

    ・現代語訳(抄訳)

     ①
     「将軍足利義視公(大智院殿)親筆一巻 義視公都落記 当人の自筆である」
     「元禄五年(一六九二)中林七左衛門の仲介で加藤勘左衛門に届けられたものを披見したところ、  確かな価値をもつものなので九月廿六日に購入した。木村見室は義視公の自筆と鑑定し、畠山牛庵  は聖護院道興の筆と鑑定した」


     応仁元年(一四六七)五月二十五日の夜、政情がいよいよ悪化する状況となってきたため、室町邸へと参上し、七月十三日まで滞在したものの、東軍・西軍の合戦が日々繰り返されるばかりで、御所の中は静かであっても、女中(日野富子)の機嫌も悪く、これでは室町殿(義政)もきっと気詰まりであろうと察し、あれこれと思うこともたくさんあったが、まずは暇乞いをして自邸へと帰ってきた。その後八月の半ば頃から、次第に物騒な情勢になってきたため、八月二十日の夜、室町邸へ祗候するつもりで、馬に鞍を置かせ、供の者たちには具足(武具)を着用させ、私自身は小具足のいでたちで途中まで出かけたのだが、「思うところがあって室町殿と一度話したいことがある」と言って細川右京大夫勝元が(私=義視を)室町邸に入らせないようにしたため、どうしてそのようなことをするのかと詳しく聞いたりしたものの、その夜はいったん自邸へと引き返すことにした。その後、方々から勝元が私(義視)を捕らえるなどという様々な噂がひっきりなしに耳に入ってきたので、「もはや私の力ではどうにもならない、ここで自害しよう」と思ったが、「やみくもに無益なことをしても、室町殿(義政)の役には立たず、忠節にならないので詮無きことです。何とか御身だけは全うされるのがよろしい」と近臣たちが諫めるので、「それはそうかも知れない」と思い直し、同八月二十三日の暮れ頃、室町殿(義政)への手紙を書き置いた。その文面には、「このような時に側近くにお仕えできないのは本意ではありませんが、あなた様のためを思って身を引くことにしました。あなた様に対して、まったく二心はありません。私の居場所については追ってお知らせします」と書き記した。その夜、今出川邸(義視の自邸)を出て、北畠前中納言を頼る心づもりで、東をめざして下国したのである。
         (中略)

    (九月)十三日の夜は、宿の近くの浜辺に出て名月を楽しみ、酒もあったので都のことなどが思い出され、
       伊勢の浦の波に浮かぶ月を見ると
       都で見る月の後の名を思い出さずにはいられまいよ
    などと道理にかなわぬ口ずさみなどをした。十六日には平尾を出立して、伊勢国丹生という所にある薬師寺という寺を借り、そこを在所と定めた。この地から急いで室町殿(義政)に(自分の居場所を)報告しようと思い立ち、詳細に手紙をしたためて、同二十一日にはそれを京都へと送った。その文面には、「北畠前中納言を頼りに(下向し)、その領内にある粗末な山寺のある所に辿り着きました。思いも寄らぬ旅であったので、恐れながら御推察に過ぎる様子です」など、何ヶ条も書き上げたが、すべてを書き切れないので、以下は省略する。
         (中略)

    さてさて、いつまでこのようなことが続くのだろうかと思っていた頃、十月九日であっただろうか、室町殿よりじきじきのお返事が届いた。すぐに開いてみると、事細かで懇ろなお言葉が記されていた。「だいぶ心配していたが、(北畠)前中納言の領内に下着したとのことで安堵した」などの文章があり、(私=義視)に二心がない旨を本当によく見ておられ、そのことを喜ぶことすら愚かに感じられた。その後、早々に上洛するようたびたび(義政からの)ご命令があり、このことを(北畠)前中納言と相談し、すぐに上洛し忠節を尽くす由、お返事し、その準備も前中納言により進めていたが、青侍どもの妨害によって何だかんだと時間が打ち過ぎていってしまった。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『経覚私要抄』応仁元年五月廿八日条

    ・現代語訳

      一、下村の与三男が一昨日京都に上り、今日、午後六時頃、奈良へと帰ってきた。京都の様子を詳しく、以下のように語った。
       まず、去る二十五日、用害を築くために一条辺りの竹林を細川勝元方の者が伐採したという。この竹林の所有者は山名方の者だったので、この知らせを聞いて早速人を遣わして追い払った。翌二十六日、細川方から(報復のための)軍勢が出て、一色義直の館へ攻め入ったという。しかし、一色勢は既に山名方へ加勢のために向かっており留守だったので、その館を(細川方が)焼き払ってしまった。(中略)京都の様子は言葉では言い尽くせないような状況だという。
      一、室町殿(足利義政)については、近習の者が三交代制で門という門を閉じ、警固を固めているという。但し、(室町殿は)細川方・山名方の両方に使者を遣わし、まずは戦闘を中止する方策を考えるべしとお命じになったという。

  • 『経覚私要抄』応仁元年五月廿八日条・読み下し文

       一、下村の与三男、一昨日京都に上り、今日、酉の剋、下向せしめ了んぬ。京都の様、委細申すと云々。
       まず去る廿五日、用害として一条の辺の竹を右京太夫(細川勝元)方の者、これを切る。この竹の主は山名方の者なり。よってこの告を聞き、人を出し追い払い了んぬ。明くる日の廿六日、彼の方より大勢出で、一色(義直)屋形に馳せ入り了んぬ。しかるに一色、山名方へ罷り出で留守の間、屋形を焼き払い了んぬ。(中略)京都の式、言詞を以て述べ難きなりと云々。
      一、室町殿には近習の者共、三番にして門々を閉じて警固し奉ると云々。但し両方右京太夫・山名へ御使を立てられ、まず無為の計略を廻らし候へと仰せ付けらると云々。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月二日条  ・現代語訳

     一、随心院殿からの手紙をもらった。京都の様子はいよいよ混迷を極めているようである。とくに九条家が被っている御迷惑は計り知れないものがあるという。なぜなら京都中で売買が中断し、そのため食料が一切入荷せず、その御迷惑は申しようもないという。禁裏・仙洞も例外ではないという。今度、(将軍家の)御旗が日野内大臣のもとに預けられることとなり、そのため細川方が近日中に内大臣亭を焼き払うと申しているという。それを受けて内大臣亭では堀が掘られているといい、九条家に対しても夫銭が賦課されたようである。大門・小門の前に大きな堀が掘られ、この様子では万が一火事が起こっても、邸内から脱出することが出来なくなってしまい、きっと焼け死んでしまうとと言われているという。珍事とはまさにこのことである。近衛家の大門・小門の前も、日々夜々、合戦場となっているという。□□公方の御旗のことを尋ねられたところ、一色がこれを取って敵方に渡してしまったということらしく、急きょこれを新調することになったようである。
    (中略)
    公方(足利義政)は今出河殿(足利義視)と若君(足利義尚)と同じ所におり、現在のこの状況(西軍と東軍とに分かれて睨み合っている状況)は大変迷惑だという様子である。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月二日条 読み下し文

      一、随心院殿より書状を給わる。京都の儀、尚々珍事々々。なかんずく家門の儀の御迷惑、これに過ぐべからずと云々。京中の売買叶うべからず。然る間、食物類、一向に叶わず、御迷惑申すばかりもなしと云々。禁裏・仙洞もこの御儀と云々。今度、御幡の事、日野内府、これを申し留む。よって細川より近日、内府亭を焼き払うべしと云々。内府亭、堀を掘られ、家門へも夫銭これを進らす。大門・小門前に大堀を成され畢んぬ。万一火事の出来これあらば、御出の道あるべからざるの間、御生涯に及ぶべしと云々。珍事この事なり。家門の大門・小門の御前も、日々夜々合戦場なり。□□公方の御幡、尋ねらるところ、一色これを取り、敵方にこれを置かると云々。よって俄にこれを織らるの由と云々。
     (中略)
    公方は今出河殿・若君以下、御一所に御座す。只今の儀、一向に御迷惑の御風情なりと云々。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『経覚私要鈔』寛正五年四月五日・八日・十日条 ・語釈

     *今晨…今朝
     *昭堂…禅寺で僧堂と後架の間にある堂舎(日国)
     *蔭凉…鹿苑院内にあった塔頭・蔭凉軒を指すかと思われる。普通名詞としての「蔭涼」は物陰になっていて涼しいことを指す。
     *弊寮…※大漢和などにないが、文脈から「自分の住居」をへりくだって言っているか。
     *赤松次郎法師…赤松政則のこと。
     *恭敬歓喜の懐…
     *崇寿院雪庵…※不明。末柄豊「室町時代公家日記禅僧索引」に所掲なし。崇寿院は相国寺の塔頭か。
     *快然…快全か。病気などが平癒すること。
     *勧進…寄付を募ること。ここでは鞍馬寺修造のための寄付を募ることを指している。
     *公方…将軍を指す言葉。ここでは足利義政を指す。
     *山名金吾…山名持豊(宗全)のこと。「金吾」は左右の衛門府を指す唐名(中国の官制における同様の府省の呼称)。
     *皈去…「皈」は「帰」と同字。返り去ること。
     *上様…足利義政の正室・日野富子のこと。
     *陌上に塵を揚ぐ…「陌上の塵」でちまたの塵。飛び散り一定していないことの譬え。
             「陌」は道、あぜみち、町、市中の道、はちまき等の意味がある。
     *治部大輔殿…斯波義廉か?
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『経覚私要鈔』寛正五年四月五日・八日・十日条   ・解説

    ・足利義持が相国寺鹿苑院に設けた寮舎・蔭凉軒主の公用日記。鹿苑院は禅宗寺院を統括する僧録であり、蔭凉軒は鹿苑院と足利将軍の連絡役として、政治的に重要な役割を果たした(須田牧子「蔭凉軒日録」、元木泰雄・松薗斉『日記で読む日本中世史』所収、ミネルヴァ書房、二○一一年)。

    ・原漢文。『増補 続史料大成』に五巻本が収録。読み下しは高木作成。禅僧独特    の難解な語彙、文法が多用されているのも大きな特徴。

  • 『経覚私要鈔』寛正五年四月五日・八日・十日条 ・読み下し文

    五日 今晨不参。河原勧進。申楽。観世。午後、御成り。能は七番。これを観る者、もしくは千人。数を挙ぐべからざるなり。御桟敷の杯盤、狼藉。酒宴歓楽娯楽。古来今に絶ゆ。河原申楽以後、ついに管領細川左京大夫殿に御成り。六十三間の桟敷。公家・武家・騎馬、衣服、観を改む。皆曰く近来の壮観なりと。日晴れて風静か。公方御車に乗らるなり。
    八日 当軒御成りの事を報らせ奉るなり。御成り、まず昭堂において御焼香。以後、蔭凉において御斎。斎の後、御手水。すなわち前日河原申楽、一会歌舞、衣裳華麗、神妙の至り。談中にありて刻移ろうなり。赤松次郎法師、前日、御桟敷において召され、御盃を下さる。すなわち今晨参りて折紙・御太刀を献ず。以後、弊寮に来たりて、その祝義を伸ぶ。また前日召さるる事、仰せ出さる。すなわちその恭敬歓喜の懐を申すなり。崇寿院雪庵和尚、当軒において、はじめて御相伴に参らるなり。前日、天気にわかに晴る。御快然の由、仰せ出さるなり。天下太平の時、必ず勧進あり。これ故、上下和睦して相楽しむ。もっとも公方の御威勢、これに過ぐべからず。申楽七番過ぐ。しかる後、御宴いまだ終わらずして、見物の者、座を起ち得ず、もしくは千人、その数、量うべからず。皆、一言のもとに笠を脱ぐ。これまたその威を畏むなり。山名金吾、田楽永阿弥に命じ、諸人笠を脱がしむ。しかるに還御せざる以前、皆、座を起たず、還御に及びて忽ち皈去す。もっとも威の服する所、感謝に堪えざるなり。
    十日 不参。午後、河原桟敷に御成り。まず三宝院の御桟敷に参り、拝覧す。上様の出車ならびに御輿の次に、公方様御成り。御車陌上に塵を揚ぐ、人中、観を改む。皆、希有と曰く。状観、古来今に絶ゆ。能は十番、二番に請けらる。けだし先規なり。御桟敷よりついに治部大輔殿に御成りなり。けだし旧例なり。今暁天陰る。明晨快晴、もっとも時にすべきなり。
                                 (作成:高木徳郎)