カテゴリー: Uncategorized

  • 『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条

    ・読み下し文

     廿六日、丙午、武蔵国畠山次郎重忠、かつは平氏の重恩に報いんがため、かつは由比浦での会稽をすすがんがため、三浦の輩を襲わんと欲す。…辰の刻に及び、河越太郎重頼・中山次郎重実・江戸太郎重長・金子・村山の輩数千騎攻め来たる。義澄ら相戦うといえども、昨由比の戦今両日の合戦、力疲れ矢尽き、半更に臨みて城を捨て逃げ去る。義明を相具さんと欲す。

     義明の云わく、「吾、源家累代の家人として、幸いにもその貴種再興の秋に逢う。けだしこれを喜ぶかな。保つところは已に八旬有余なり。余算を計うるに幾ばくならず。今、老命を武衛に投げうち、子孫の勲功に募らんと欲す。汝ら急ぎ退去し、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾は独り城郭に残留し、多軍の勢いを模し、重頼に見せしめん」

     義澄以下、涕を泣き、度を失うといえども、命に任せて愁い以て離散すとてえり。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『山槐記』治承四年十月七日条

    ・読み下し文

    七日、丙戌、天晴れ、…大理、院において示されて曰く、頼朝すでに安房国〔頭弁の知行の国なり〕を虜領すべきの由、頭弁経房朝臣、我に付け新院に奏す。脚力申詞を注進すとてえり。

     予、彼の状を乞い取り披見す。駿河国住人五百余騎、伊豆国に発向し、頼朝を攻む。頼朝党、筥根山に引き籠もる。

     八月晦日、頼朝等筥根山を出て乗船し、夜半に安房国に着す。

     九月一日、諸郡を与力に分与し、人家を追捕し、調物を奪取す。この旨つぶさに注進するところなり。
                                    (作成:高木徳郎)

  • 『山槐記』治承四年九月七日条

    ・読み下し文

    七日、丙辰、天晴れ、申の刻、事畢りて三条に帰る。源実の云わく、義朝の子、伊豆国を虜掠す。坂東の国の輩これを追討し、舅男を伐り取る。義朝の子においては、筥根山に入り了んぬの由を申し上げるの由、座主明雲房において承るところなりとてえり。かくの如く示すの間、義重入道故義国の子書状を以て大相国に申して云わく、義朝の子、伊豆国を領し、武田太郎、甲斐国を領す。義重、前右大将宗盛の命在りて、彼の家にあい乖く。坂東の国の家人に追討すべきの由、仰せ下さる。よって下向するところなりとてえり。
    伊豆国流人兵衛佐、謀叛の合戦を企つる事、
     八月廿三日寄り合う輩、相模国小早河、
    (以下略)
                                  (作成:高木徳郎)

  • 『大乗院寺社雑事記』文明九年七月廿九日条≪現代語訳≫

       二十九日
    一、連歌師の宗祇が都から下ってきた。(彼によると)室町殿とその正室が、禁裏での御 歌合において、点を打ち、判詞を付けたため、(宗祇は)使者として成就院に参上したという。大乱の最中なのに、希有なことである。京都の周辺は全体として道の行き交いが不便で、ご通行は難儀するとのことだった。公武にわたって上の者も下の者も、昼に夜に大酒を飲んでおり、明日、出仕のための衣さえ酒を買う代金として与えてしまう。奉公をしている者たちは、今年のうちに世が平和になることがなければ、都を逃げ出す心づもりをしているところ、杉原賢盛は身分の高い人物なのに、一枚の衣もないので奉公・出仕ができないという。

     正室は、天下のことをすべて取りしきっており、そのための資金をふんだんに用意している。戦陣にある大名・小名も、利子を付けてこれを借用している。天下の資金は、すべてこの御方のもとにあるかのように見受けられる。最近では、将軍より米蔵の設置を指示され、そこでの商売をはじめる準備を始めているようだ。大儀のためだという。畠山義統などは、先日、千貫も借用したとのことだ。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『大乗院寺社雑事記』  文明九年七月廿九日条

    ・読み下し文

       二十九日
    一、宗祇下向す。室町殿・同御台、禁裏御歌合の御点・判詞、御申しの間、御使として成就院に参上すと云々。大乱中、希有の事なり。惣じて京都の儀は、毎時その道なく、御運今の如くんば嘆き入るの由と云々。公武上下、昼夜大酒。明日出仕の一衣も酒手に下 行す。奉公方の者共は、当年中、無為の儀これ無くば、おのおの逐電すべきの支度、杉 原賢盛は随分(者)なり。一衣これ無きの間、奉公出仕能わずと云々。御台、一天の御 計らいの間、料足ともその数を知れず御所持す。陣中の大名・小名、利平を以て借用す。 ただ一天下の料足は、この御方にこれ有る様に見え畢んぬ。近日また米倉の事、これを 仰せ付けらる。御商いあるべきの由、御支度、大儀の米共なりと云々。畠山左衛門佐(義統)、 先日、千貫借用申す。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『経覚私要抄』寛正二年二月七日条≪現代語訳≫

    一、楠葉新右衛門が語ったところでは、先月十八日の夜、室町殿が見た夢の枕に、普廣院殿(足利義教)が束帯姿でお立ちになり、「私は生前、多くの罪を犯してきたので、今の苦しみも一つや二つではない。しかし、善いこともたくさんしてきたのだ。

     したがってもう一度生まれ変わったならば、やはり将軍として生きるのが良いと思っている。そこで今現在、飢饉により多くの乞食たちが餓死しているので、彼らの苦しみを助けようと、施しを行ってその悲しみに報いたいのだ」とはっきりとおっしゃったのを聞いたところで目が覚めたのだという。

     そして(室町殿は)願阿という者に命じて、六角堂の辺りに一町分の仮設小屋を建て、乞食を多く収容し、大釜をたくさん作って設置し、そこに雪や水を引いてきて、毎日千五百疋ずつの食糧を夏になるまで用意させたということだそうだ。なんという有り難い夢想だろうか。大いに御利益のあることだろう。尊いことだ。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『経覚私要抄』寛正二年二月七日条  ・読み下し文

          (中略)
    一、楠葉新右衛門語りて云わく、去る月十八日夜、室町殿の御夢に普廣院殿足利義教、束帯にて御枕に立たしめ賜いて云わく、吾存生の時、罪を犯すことこれ多きにより、受苦の事、一に非ず。しかるに又善事を沙汰することも多端。これにより重ねて将軍に生ずべきものなり。それにつき只今、乞食多く以て餓死に及ぶ。吾、苦を助けべくんば、かの乞食に施行をして悲しみを助くべきかの由、分明に申さると覚えて御夢覚め了んぬ。これにより願阿という者に仰せ付けられ、六角堂の辺りに一町分の渡り屋を立てられ、乞食を悉く入れ置かれ、大釜をあまた塗られ、雪水をして毎日これを引かる。日々分千五百疋、夏時分に至るまで、御沙汰あるべしと云々。有り難き御夢想なり。廣大の御利益にあらずや。尊ぶべし尊ぶべし。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『都落記』語釈


    …社会の動向、時勢(「日国」)。ここでは同年正月の御霊合戦後の不穏な情勢が続いていることを指していると思われる。この五日前に東軍・西軍がそれぞれ細川邸・山名邸に召集され、翌二十六日に応仁の乱の戦端が開かれた。
    しきる…度重なる、頻繁になる(「日国」)
    女中…大藪海氏はこの「女中」を「日野富子のことであろう」としているが、とくにその根拠は示されていない(大藪海『応仁・文明の乱と明応の政変』)。
    世以外に成しかは…この頃、大内政弘が西軍に加勢するために上洛をめざし、摂津国付近で東軍の細川勝元勢と小競り合いが生じていた(『史料綜覧 巻八』)。
    今出川…足利義視の自邸があった場所。
    北畠前中納言…北畠教具


    おもはすよ…以下の和歌の解釈は暫定案。
    すちなき…「すじなき」か。不条理な、道理にかなわない(「日国」)
    ふしきの山寺…ここでは「並ではなく粗末なこと、卑しいこと」(「日国」)の意か。


    前中…北畠前中納言(教具)のこと。
    青侍共の違乱…具体的なことは不明ながら、義視・北畠の上洛を阻止したい勢力の存在が指摘されている(大藪海『応仁・文明の乱と明応の政変』)。

  • 『都落記』

    ・現代語訳(抄訳)

     ①
     「将軍足利義視公(大智院殿)親筆一巻 義視公都落記 当人の自筆である」
     「元禄五年(一六九二)中林七左衛門の仲介で加藤勘左衛門に届けられたものを披見したところ、  確かな価値をもつものなので九月廿六日に購入した。木村見室は義視公の自筆と鑑定し、畠山牛庵  は聖護院道興の筆と鑑定した」


     応仁元年(一四六七)五月二十五日の夜、政情がいよいよ悪化する状況となってきたため、室町邸へと参上し、七月十三日まで滞在したものの、東軍・西軍の合戦が日々繰り返されるばかりで、御所の中は静かであっても、女中(日野富子)の機嫌も悪く、これでは室町殿(義政)もきっと気詰まりであろうと察し、あれこれと思うこともたくさんあったが、まずは暇乞いをして自邸へと帰ってきた。その後八月の半ば頃から、次第に物騒な情勢になってきたため、八月二十日の夜、室町邸へ祗候するつもりで、馬に鞍を置かせ、供の者たちには具足(武具)を着用させ、私自身は小具足のいでたちで途中まで出かけたのだが、「思うところがあって室町殿と一度話したいことがある」と言って細川右京大夫勝元が(私=義視を)室町邸に入らせないようにしたため、どうしてそのようなことをするのかと詳しく聞いたりしたものの、その夜はいったん自邸へと引き返すことにした。その後、方々から勝元が私(義視)を捕らえるなどという様々な噂がひっきりなしに耳に入ってきたので、「もはや私の力ではどうにもならない、ここで自害しよう」と思ったが、「やみくもに無益なことをしても、室町殿(義政)の役には立たず、忠節にならないので詮無きことです。何とか御身だけは全うされるのがよろしい」と近臣たちが諫めるので、「それはそうかも知れない」と思い直し、同八月二十三日の暮れ頃、室町殿(義政)への手紙を書き置いた。その文面には、「このような時に側近くにお仕えできないのは本意ではありませんが、あなた様のためを思って身を引くことにしました。あなた様に対して、まったく二心はありません。私の居場所については追ってお知らせします」と書き記した。その夜、今出川邸(義視の自邸)を出て、北畠前中納言を頼る心づもりで、東をめざして下国したのである。
         (中略)

    (九月)十三日の夜は、宿の近くの浜辺に出て名月を楽しみ、酒もあったので都のことなどが思い出され、
       伊勢の浦の波に浮かぶ月を見ると
       都で見る月の後の名を思い出さずにはいられまいよ
    などと道理にかなわぬ口ずさみなどをした。十六日には平尾を出立して、伊勢国丹生という所にある薬師寺という寺を借り、そこを在所と定めた。この地から急いで室町殿(義政)に(自分の居場所を)報告しようと思い立ち、詳細に手紙をしたためて、同二十一日にはそれを京都へと送った。その文面には、「北畠前中納言を頼りに(下向し)、その領内にある粗末な山寺のある所に辿り着きました。思いも寄らぬ旅であったので、恐れながら御推察に過ぎる様子です」など、何ヶ条も書き上げたが、すべてを書き切れないので、以下は省略する。
         (中略)

    さてさて、いつまでこのようなことが続くのだろうかと思っていた頃、十月九日であっただろうか、室町殿よりじきじきのお返事が届いた。すぐに開いてみると、事細かで懇ろなお言葉が記されていた。「だいぶ心配していたが、(北畠)前中納言の領内に下着したとのことで安堵した」などの文章があり、(私=義視)に二心がない旨を本当によく見ておられ、そのことを喜ぶことすら愚かに感じられた。その後、早々に上洛するようたびたび(義政からの)ご命令があり、このことを(北畠)前中納言と相談し、すぐに上洛し忠節を尽くす由、お返事し、その準備も前中納言により進めていたが、青侍どもの妨害によって何だかんだと時間が打ち過ぎていってしまった。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『経覚私要抄』応仁元年五月廿八日条

    ・現代語訳

      一、下村の与三男が一昨日京都に上り、今日、午後六時頃、奈良へと帰ってきた。京都の様子を詳しく、以下のように語った。
       まず、去る二十五日、用害を築くために一条辺りの竹林を細川勝元方の者が伐採したという。この竹林の所有者は山名方の者だったので、この知らせを聞いて早速人を遣わして追い払った。翌二十六日、細川方から(報復のための)軍勢が出て、一色義直の館へ攻め入ったという。しかし、一色勢は既に山名方へ加勢のために向かっており留守だったので、その館を(細川方が)焼き払ってしまった。(中略)京都の様子は言葉では言い尽くせないような状況だという。
      一、室町殿(足利義政)については、近習の者が三交代制で門という門を閉じ、警固を固めているという。但し、(室町殿は)細川方・山名方の両方に使者を遣わし、まずは戦闘を中止する方策を考えるべしとお命じになったという。