投稿者: t-takagi

  • 『大乗院寺社雑事記』応仁元年六月二日条 解説

    【概要】
     ・『大乗院寺社雑事記』は、奈良の興福寺大乗院門跡の尋尊(1430~1508)が記した日記。尋尊は関白一条兼良(1402~1481)の子で、記事は宝徳2年(1450)から永正5年(1508)までの50年以上に及ぶ(途中に欠損期間あり)。尋尊の筆まめな性格から、記事の内容はきわめて多岐に及び、室町時代後期の畿内周辺の政治・経済・社会・文化を知る上での基本史料。頻発する土一揆や大和の国人たちの動向、室町幕府の将軍・守護らや公家たちの動静などを克明に記録している他、応仁・文明の乱の状況についても、京都から伝え聞いた情報や大和国内への波及の状況なども詳しく記している。
     ・原漢文。『増補 続史料大成』に12巻本が収録。記主による自筆の原本は国立公文書館内閣文庫所蔵。なお、尋尊自身が記した「大乗院寺社雑事記」とは別に、尋尊が歴代の門主(住職)の日記などをもとに編纂した「大乗院日記目録」があり、正長の土一揆について「日本開白以来、土民の蜂起これ初めなり」と記した、教科書にもよく掲載されて印象的な記述は、後者に含まれる記事である(『増補 続史料大成』第12巻に収録)。
    【授業で使う際のポイント】
    ・応仁・文明の乱は、応仁元年(1467)5月26日の明け方、東軍の細川勝元らの軍勢が将軍の御所(室町殿)を包囲し、西軍の一色義直の屋敷を襲撃したことで勃発した。以後、毎日のように京都の市街地のあちこちで、寺社や公家たちの屋敷が焼かれたり軍勢の陣地とされたりして、10月頃までは激しい戦闘が続いた。
     ・この記事は、そうした開戦直後の京都の状況を生々しく伝える史料である。冒頭の「随心院殿」とは尋尊の兄であり随心院門跡の厳宝で、弟に手紙を送って京都の状況を伝えている。これによると、戦闘の勃発により「家門」(尋尊らの実家である一条家)の「御迷惑」(ここでは困惑している、というほどの意であろう)が始まっており、それは「京中の売買」が麻痺し、「食物類」が「一向叶わず」すなわち手に入らなくなってしまったことにより起こっている様子がうかがえる。そしてこの状況は禁裏(天皇)も仙洞(上皇)も同様だという。
     ・また、二度ほど出てくる「御幡」とは、自軍が室町幕府の将軍を擁する“官軍”であり、反乱軍ないしは謀反人ではないことを証する旗のことである。記事では、これが西軍(山名方)に通じていると噂されていた「日野内府」(日野勝光)の手元に押し留められてしまったため、東軍(細川方)が「内府亭を焼き払うべし」と息巻いている様子が伝えられている。これに対し、「内府」は自身の屋敷の周囲に「堀」を掘って抵抗しようとし、それにかかる費用として「夫銭」を一条家にも賦課してきたという。ところが、この「堀」は屋敷の出入り口である「大門・小門」の前にも掘られてしまい、万一、屋敷に火を放たれて火災となっても中から逃げ出す道がなくなってしまい、「御生涯に及ぶべし」すなわち命を落としてしまう、と笑い話のような話が記されている。「珍事この事なり」という言葉に、パニックに陥る京都の様子が生々しく伝えられていると言ってよいだろう。「大門・小門の御前も日々夜々、合戦場なり」とあり、戦闘が毎日毎夜、目の前で繰り広げられている様子も綴られている点にも注意したい。
     ・この将軍家の「御幡」だが、捜索したにも関わらず、山名方(西軍)の一色義直が密かに持ち出していて、将軍の御所(室町殿)にはなかったようで、仕方なく細川方(東軍)では「俄にこれを織らる」すなわち御旗を新たに織って製作したという。官軍であることを証明する旗とはその程度のものか、とも思うがこれもパニックの一端を示しているとも言えそうだ。こうした状況の中で、「公方」(=義政)は、「今出河殿」(=足利義視)と「若君」(=のちの足利義尚)と一緒におり、筆者の尋尊には、その様子が「御迷惑の御風情なり」つまり困惑し、オロオロするばかりのようにみえる、というのだから、やや頼りなさげに映っていたようである。

  • 鳥羽院庁下文案 康治元年十二月十三日 語釈

    ※1 四至:所有地、耕作地、寺域などの東西南北の四方の境界。
    ※2 牓示:領地・領田などの境界を示すために設置された。
    ※3 立券:物件の取得・売買・譲渡に際して公文書(立券文)を作成する手続き。特に平安時代以降、荘園を認可するとき荘園側と国衙が立ち会って四至・坪付を確定して公文書を作る。
    ※4 仏聖料:仏へのお供え物。
    ※5 収公:国衙に没収されること。
    ※6 地利米:その土地で生産された米。
    ※7 おほんため:~のために。~するために。
    ※8 三密の教法:空海が開いた真言宗をはじめとする密教の三つの教え。具体的には、「身密」=身体・行動、「口密」=言葉・発言、「意密」=こころ・考えについての教えを指すが、この三密を整えることで即身成仏(生きたまま仏になる)できるという密教の教えを表す。
    ※9 「臣一の善女有り。其の君に献ず」:「臣一の善を得て、必ず其の君に献ず。」(弘法大師伝全集第二)とあるので引用したヵ。
    ※10 庁裁:院庁の裁き。
    ※11 国使:国衙からの使者。
    ※12 能米:玄米。
    ※13 康治元年:一一四二年。
    (作成:伊藤裕貴)

  • 鳥羽院庁下文案 康治元年十二月十三日 読み下し文

    「〈神野((別紙))・真国新田十石寄進事 院庁御下文案〉     」
    院庁下す 紀伊国在庁官人等
     早く使者相共に、四至(※1 しいし)を堺し牓示(※2 ぼうじ)を打ち、立券※3し言上すべき、神野・真国の山地弐箇処の事
    郡に在り、
     壱処神野
      四至東は岫峯くきのみねを限る
     南は志賀良しからの
    横峯よこみね

    を限る
     

        西は佐々少河ささおがわの西峯にしのみねを限る 北は津河つがわの北峯きたのみねを限る
     壱処真国
      四至東は加天婆かてわ(ば)の永峯ながみねを限る 南は津河北峰を限る
     西は伯父おじの峯みねを限る 北は高峯たかみねを限る

        使(使者名欠)
    右、権中納言兼皇后宮権大夫侍従藤原朝臣家(成通)の去んぬる十一月三日の寄文に偁いはく、「件の所領は、当国の住人長なが依友よりともの先祖相伝の私領なり。往年の比、事の由緒有るに依り、高野山に寄進し、仏聖料※4を弁済す。その後偏へに停廃ちょうはいに従い、猥みだりに収公※5を致す。民烟みんえん逃散し、田でん畝ぽ荒廃す。しかるに今、非道の妨げを省かんがため、当家に寄せ与うる所なり。次第の文書と謂ひ、調度の公く験げんと謂ひ、全く相違無し。誰か異論を致さん。爰ここに件の庄を以て永く院庁に寄進するの後、御領となす。其の地利米※6拾斛(石)を以て、毎年高野山に弁進を致す。是則ち一には禅定仙院(鳥羽)の万歳の宝算のおほ※7んため、一には弘法大師の三密※8の教法に資する也。臣一※9の善女有り。其の君に献ず。けだしこの謂ひか。望み請ふらくは庁裁※10を、件の庄、永代を以て限り、不輸租田と為すべし。永く※11国使くにづかひ幷ならびびに寺使てらづかひを入るべからず。毎年貢に至りては、敢へて懈怠けたいあるべからず。預所においては、永く領家の附属ふしょくに任せ、補せらるべし。」者てへれば、申請の旨に任せて、御領となし、使者あい共に四至を堺し牓示を打ち、立券し言上すべし。御年貢の能米※12拾斛(石)に至りては、毎年高野御山に運び進らし、預所においては、彼の家の譲状に任せて、執行しぎょうせしむべきの状、仰せの所くだんの如し。在庁官人等、宜しく承知すべし。違失すべからず。故ことさらに下す。
     康治元※13年十二月十三日 主典代散位中原朝臣□□
    別当権大納言藤原朝臣(実行ヵ)  権大納言兼右近衛大将藤原朝臣(実能)
    (以下、三十五名署名省略)
            

  • 『吾妻鏡』治承四年九月十九日条 読み下し文

     十九日、戊辰、上総権介広常、当国周東すとう・周西すさい・伊南いなん・伊北いほう・庁南・庁北の輩等を催し具し、二万騎を率いて隅田河の辺りに参上す。武衛頗る彼の遅参を瞋いかり、敢えて以て許容の気なし。広常潜かに為を以て、当時は卒土は皆平相国禅閣の管領に非ざるはなし。ここに武衛、流人として輙すなわち義兵を挙げるの間、その形勢高峻の相なくば、直にこれを討ち取り、平家に献ずべしとてえり。よって内には二図の存念を挿すといえども、外には帰伏の儀を備えて参る。しからばこの数万の合力を得て、感悦せらるべきかの由、思い儲くのところ、遅参を咎めらるの気あり、これほとんど人主の体に叶うなり。これによりたちまち害心を変じ、和順を奉ると云々。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『吾妻鏡』治承四年六月十九日・二十四日・二十七日条

    ・読み下し文

     十九日、庚子、散位康信の使者、北条に参着するなり。武衛、閑所において対面し給う。使者申して云わく、去月廿六日、高倉宮(以仁王)の御事あるの後、彼の令旨を請けるの源氏等、皆以て追討せらるべきの旨、その沙汰あり。君は正統なり。殊に怖畏るべきか。早く奥州方に遁れ給うべきの由、存ずるところなり、とてえり。
     廿四日、乙巳、入道源三品敗北の後、国々の源氏を追討せらるべきの条、康信の申状、浮言に処せらるべからざるの間、さえぎりて平氏追討の籌策を廻らさんと欲す。よって御書を遣わし、累代の御家人等を招かる。藤九郎盛長(安達)を御使となし、また小中太光家を相副えらると云々。
     廿七日、戊申、三浦次郎義澄義明二男、千葉六郎大夫胤頼常胤六男等、北条に参向す。日来京都に祗候し、去月中旬の比、下向せんと欲すの刻、宇治合戦等の事により、官兵をして抑留せらるるの間、今に遅引す。数月の恐鬱を散ぜんがため、参入の由これを申す。日来、番役により在京するところなり。武衛、件の両人に対面し給い、御閑談、刻を移す。他人これを聞かず。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『吾妻鏡』治承四年八月廿六日条

    ・読み下し文

     廿六日、丙午、武蔵国畠山次郎重忠、かつは平氏の重恩に報いんがため、かつは由比浦での会稽を雪すすがんがため、三浦の輩を襲わんと欲す。…辰の刻に及び、河越太郎重頼・中山次郎重実・江戸太郎重長・金子・村山の輩数千騎攻め来たる。義澄ら相戦うといえども、昨由比の戦今両日の合戦、力疲れ矢尽き、半更に臨みて城を捨て逃げ去る。義明を相具さんと欲す。

     義明の云わく、「吾、源家累代の家人として、幸いにもその貴種再興の秋に逢う。けだしこれを喜ぶかな。保つところは已に八旬有余なり。余算を計うるに幾ばくならず。今、老命を武衛に投げうち、子孫の勲功に募らんと欲す。汝ら急ぎ退去し、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾は独り城郭に残留し、多軍の勢いを模し、重頼に見せしめん」

     義澄以下、涕を泣き、度を失うといえども、命に任せて愁い以て離散すとてえり。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『山槐記』治承四年十月七日条

    ・読み下し文

    七日、丙戌、天晴れ、…大理、院において示されて曰く、頼朝すでに安房国〔頭弁の知行の国なり〕を虜領すべきの由、頭弁経房朝臣、我に付け新院に奏す。脚力申詞を注進すとてえり。

     予、彼の状を乞い取り披見す。駿河国住人五百余騎、伊豆国に発向し、頼朝を攻む。頼朝党、筥根山に引き籠もる。

     八月晦日、頼朝等筥根山を出て乗船し、夜半に安房国に着す。

     九月一日、諸郡を与力に分与し、人家を追捕し、調物を奪取す。この旨つぶさに注進するところなり。
                                    (作成:高木徳郎)

  • 『山槐記』治承四年九月七日条

    ・読み下し文

    七日、丙辰、天晴れ、申の刻、事畢りて三条に帰る。源実の云わく、義朝の子、伊豆国を虜掠す。坂東の国の輩これを追討し、舅男を伐り取る。義朝の子においては、筥根山に入り了んぬの由を申し上げるの由、座主明雲房において承るところなりとてえり。かくの如く示すの間、義重入道故義国の子書状を以て大相国に申して云わく、義朝の子、伊豆国を領し、武田太郎、甲斐国を領す。義重、前右大将宗盛の命在りて、彼の家にあい乖く。坂東の国の家人に追討すべきの由、仰せ下さる。よって下向するところなりとてえり。
    伊豆国流人兵衛佐、謀叛の合戦を企つる事、
     八月廿三日寄り合う輩、相模国小早河、
    (以下略)
                                  (作成:高木徳郎)

  • 『大乗院寺社雑事記』文明九年七月廿九日条≪現代語訳≫

       二十九日
    一、連歌師の宗祇が都から下ってきた。(彼によると)室町殿とその正室が、禁裏での御 歌合において、点を打ち、判詞を付けたため、(宗祇は)使者として成就院に参上したという。大乱の最中なのに、希有なことである。京都の周辺は全体として道の行き交いが不便で、ご通行は難儀するとのことだった。公武にわたって上の者も下の者も、昼に夜に大酒を飲んでおり、明日、出仕のための衣さえ酒を買う代金として与えてしまう。奉公をしている者たちは、今年のうちに世が平和になることがなければ、都を逃げ出す心づもりをしているところ、杉原賢盛は身分の高い人物なのに、一枚の衣もないので奉公・出仕ができないという。

     正室は、天下のことをすべて取りしきっており、そのための資金をふんだんに用意している。戦陣にある大名・小名も、利子を付けてこれを借用している。天下の資金は、すべてこの御方のもとにあるかのように見受けられる。最近では、将軍より米蔵の設置を指示され、そこでの商売をはじめる準備を始めているようだ。大儀のためだという。畠山義統などは、先日、千貫も借用したとのことだ。
                                   (作成:高木徳郎)

  • 『大乗院寺社雑事記』  文明九年七月廿九日条

    ・読み下し文

       二十九日
    一、宗祇下向す。室町殿・同御台、禁裏御歌合の御点・判詞、御申しの間、御使として成就院に参上すと云々。大乱中、希有の事なり。惣じて京都の儀は、毎時その道なく、御運今の如くんば嘆き入るの由と云々。公武上下、昼夜大酒。明日出仕の一衣も酒手に下 行す。奉公方の者共は、当年中、無為の儀これ無くば、おのおの逐電すべきの支度、杉 原賢盛は随分物(者)なり。一衣これ無きの間、奉公出仕能わずと云々。御台、一天の御 計らいの間、料足ともその数を知れず御所持す。陣中の大名・小名、利平を以て借用す。 ただ一天下の料足は、この御方にこれ有る様に見え畢んぬ。近日また米倉の事、これを 仰せ付けらる。御商いあるべきの由、御支度、大儀の米共なりと云々。畠山左衛門佐(義統)、 先日、千貫借用申す。
                                   (作成:高木徳郎)