カテゴリー: 長秋記

  • 『長秋記』天治元年正月五日条 読み下し文

    ●読み下し文
    正月
     五日 晴、辰刻参内す、早く南殿を出御すと云々、今度始めて同輿の儀無しと云々、烏丸より北行す、土御門より東行す、東洞院より南行す、二条殿西門に着御す、供奉の公卿諸司等、多く追々参加す、御輿門外に留む、而るに摂政の命に依り荷を砌中に入る、〈前例外に立つ〉、駕丁警蹕を停む、神官御麻を供う、此の間公卿殿上前の屏南幔外に東を上に南面し列立す、摂政門内南脇に立ち給う、左右大将其の東に立たる〈左北〉、時に院別当按察大納言経実卿列を放ち南に進む、西に向き一揖し、幔門より入り、中門を経て、臨幸の由を奏せらる、両楽の幄乱声を発す、按察帰出す、諸司幔門を開く、入御す、中門の内より、対代西庇の南向戸の下に至る、莚道を敷く、御輿中門内ニ東向きに安ず、
     左右將軍中門に入り跪く、右宰相中將宗輔靴を脱ぎ進みて御輿の戸を開く、御劔を取り前行す、錦道を踏まず、西方より行く、次いで攝政主上を抱き奉り、長押の上に立て奉る、下官又靴を脱ぐ、進みて璽を取り、御後錦道東に候ず、入御の後、内侍に付し退歸す、弓を取りて中門廊の戸より出ず、靴を随身して之を取る、此間乱聲止む、龍頭鷁首両船中嶋の南より出づ、池に浮かび妙曲を奏ず、左近將監狛光則龍頭に乗り皷舞す、右近將監多忠方鷁首に乗り又皷舞す、棹郎の童蠻繪の袍を着す、數廻の後樂屋の南に着す、船を辭し幄に入る、〈件の樂屋南庭池心に當たる、板を以って搆え敷く、其の上に沙を敷く、東西南に朱欄を搆う、其の上に纐纈七丈の幄を立つ、其の北中央に太鼓一面を立てる、其の東西に鉦鼓を立つ、其の前に左右の鉾を立てる、幄の北面西方に雙の狛鉾・佐保太鼓を立つ、北に水渡の板橋二つを遣る、東左近仗の東邊りに當たる、左舞是より参る、西池道に當たる、右舞是より参る、〉
     楽止む、此の間公卿殿上に候ず、内府召に依り法皇御方に参らる、南面より御簾中に入る、居筥を取り御座右方に置き退く間、上皇庇の西面より出で簾中に着座す、件の御座寝殿中央の母屋に立つ、御座定まる後内府退く、摂政参進す、帛袷を取り、主上御座の上に敷く、〈件御座中央間の庇に在り、帛袷母屋西の御屏風に懸く、鎭子左御屏風の下、摂政笏を搢み、帛袷を敷き給う、事了りて更に歸る、鎭子を取り又置き給う、件の鎭子犀形四つ也、左右の手之を取り給う、御座の四角東西向きに置かる、〉次いで摂政法皇の御氣色を蒙り御方に参内す、渡御すべきの由奏せらる、主上対代東面より出ず、〈透渡殿に當たる間摂政裾を取り候じ給う、寝殿西庇南一間より昇り給う、〈戸の脇において御笏を奉る、〉頭中將忠宗之に供う、漸く東行し御座に昇る、北に向き拝舞す、〈大略許り也、〉法皇感涙を拭い御う、事了りて還御す、
     法皇入御す、法服白單の袈裟を着し御う也、内府御簾を褰げ給う、次いで内府居筥を取り御所に入る、置き了りて臺代南面に退歸し給う、次いで權右中辨顕頼参進す、法皇の御座を撤す、便ち西面御簾中より御脇息を取り入る、茵・繧繝端疊二帖也、次いで三方を兼ねる殿上の五位等南面簀子敷を経て東に渡る、繧繝端疊二帖を取る、法皇御座の跡に敷く、顯頼東京錦の茵を取り其の上に敷く、次いで新院寝殿北庇の西向戸より出ず、西庇の南の間入り、母屋より東行し着座し御う、〈南面、通季卿御共に候ず、〉次いで摂政本の帛袷・鎭子等を撤し、本の如く新たな帛袷を置き敷く、〈本より懸けらる御屏風に相置く、程遠く見えず、尋ぬべし、〉次いで御旨により主上渡御し御拝す、其の儀前の如し、還御す、
     次ひで上皇入御す。次ひで本の役人等参り進む。上皇御座を撤し、清隆朝臣、顕頼、母屋中央の間に紫壇地兀子を立てる。余の五位等庇御簾を垂れ、主上渡御し母后に奉拝し給ふ。その間の事委しからず。還御の後に聞く、上皇御座の跡に紫壇地兀子を立てる。下敷は赤地の錦。件等の物、大嘗悠紀の所料なり。
    借り渡すなり。皇后理髪し末額を着し御ふ。主上御拝に白袷を用いらる。新院奉拝の時主上御座の帛袷等を撤し、本所に置く。上皇の御座繧繝二枚茵等なり。
    本の御座を敷くかと云々。上皇出御す。法皇御簾の中に御座す。
     御旨により主上の渡御始めの道の如し。左宰相中将宗輔朝臣御釼を取り前行す。御座の東辺に置く。主上御座定。(御笏を持ち給ふ)、下官璽を取り御後に候ず。御座定の後御釼を西南に置き(件の釼・璽等内侍之を持つ。西対の御簾中に候ずるなり、)太政大臣東方より出で、上皇御前の圓座に着す。
     摂政留まり御前の圓座に候じ給ふ。御出以前左右の近胡床を立つ。次将等靴を着し弓箭を帯し之を着すと云々、次ひで摂政頭・右大弁雅兼朝臣を召す。
    諸卿を召すべきの気色有り。雅兼退き殿上の戸外に出居す。頭を振りて還る。
    人々請けず。猶ほ戸内にて右膝を折り居て、召し候ふと謂ふべきなり。右大臣、内大臣、大納言経実、能実、宗忠、能俊、忠教、中納言顕雅、実隆、通季、実行、顕隆、雅定、実能、参議宗輔、為隆、伊通、下官等なり。此の間楽行事に仰せらる。左は成通、右は重通(第二座に着する者なり、)勅を承り各楽屋に向かふ。
    左右乱声と云々。此の間、按察大納言参議等、早東に廻り主上に御膳を供ふべし、てへり。先づ公卿の衝重居ふと云々。今に於ひて早御膳供ふべきの由仰せらる。按察大納言笏に搢み打敷を取る(件の打敷の面白地の錦衣・表は袷、金銀銅の薄文有り、)次ひで盤六本、面錦にて盛物色々の玉なり。御飯白玉なり。
    参議四人、蔵人頭二人之を取る(六位蔵人等に伝へ取りて之を授く、)
     宗輔帰りて御汁物を取る。進みて折敷を居す。次ひで下官御酒盞を取る (予め折敷を居す。下官只盞を取り折敷を取らずして参り進む。陪膳に奉り、蓋を取り帰す。後に聞く、諸卿難じて云く、折敷に居ふべし、てへり。
    此の難然るべからず。件の御酒盞の底に丁子を入る。前□或いは居へずに帰らる。
    仍って暫く寝殿南妻に於ひて御気色を取る。太政大臣直に供ふべきの気色なり。仍って進すなり、)伊通御銚子を取り後ろに在り。但し入れず持ち帰す。下官退出の時、法皇仰せて云く、院の御前の物早供ふべきの由、行事に仰すべし、てへり。
     此の旨を以て顕頼に仰す。陪膳右衛門督弓箭・釼等を撤す。老懸猶ほ冠に在り。
    笏を搢み打敷を取り参り進む。紅梅織物打敷に高坏を直す、打敷の面は綾物。
    様器凡そ六本、実物等を盛る。経忠朝臣、行宗朝臣、敦宗朝臣、有賢朝臣、清隆朝臣、忠能朝臣役たり。
     頭弁雅兼密かに難じて云く、近衛次将等に於ひて此役に寄するべきなり。此の間地久進み出で地に跪く。膳を供し了り舞に立つ。膳を供する間警蹕を称さず。
    此の後小要事有り。白地に退下すと云々。公卿の座に勧杯無し。太政大臣と摂政の座席便無き故なり。次ひで奏舞。事了る間、殿上・五位等東方より御遊具を取り役の人々の前に置く。笛(上皇)、筝(摂政)、琵琶(内大臣)、笙(雅定)、拍子(宗忠)、副音(通季、実能、宗輔)、篳篥(敦兼朝臣)、和琴(有賢朝臣)、之に先んじて掃部司南階西腋に座を敷き、召人之に着すと云々。此の間本院の引出物御馬三疋、成通、重通、忠基之を引く。後縄近衛官人一両廻らす後中門より引き出で了んぬ。次ひで新院引出物の御馬三疋、宗能朝臣、実衡、公発之を引く。次ひで贈物。按察、治部卿、民部卿北面に廻り之を取る。御手本御琵琶錦を褁に入る。御琴を褁に入る。事了る間本院色々禄を給ふ。摂政料に織物・細長有り。太政大臣之に先んじて退出す。
     事了り忩々に退出する間、公家院司より公卿八人祿・白掛を給はる。
     諸卿退座の後、対代南面において、摂政、右大臣、内大臣叙位を議せらる、其の儀、対代南の廂東一間の北辺にて菅圓座一枚を敷き、摂政の座となす、南面、其の西南同じく圓座二枚を敷き・両亟相の座となす、北上東面、摂政の座の前に一枚を敷き執筆参議の座となす、参議の座の東北にて切燈台一基を立つ、蔵人等之を敷く、摂政、右大臣、内大臣次第に着座す、次いで左大弁為隆を召し、為隆着座す、実親を召す、五位蔵人実親参進し簀子敷を居う、為隆硯・紙を召し仰す、乃ち柳の筥に盛り持ち参る、(紙一巻有り、前例二巻なり、失と謂ふべし、)為隆之を取り叙次第を巻き返す、(後に聞く、上皇仰せて云く、尻付有るべきか、しかるを為隆前例附けざるの由申す、仍って之を付けられず、)書き了りて右大臣、内記を召し叙位を下し給ふ、後に聞く、従三位藤原経忠、(新院別当、)正四位下高階宗章、(本院別当なり、上臈別当二人、顕重・有賢等を超越するなり、)従四位下藤原顕頼、(弁官の上の師俊を越す、)別紙女の叙位、従三位藤原公子、(按察女房、)従四位下藤原隆子、(当今御乳母、宗俊朝臣妻、)源任子、(姫宮御乳母代、故良圓娘なり、)続き書きの二通の事了りて、諸卿下り立つ、御輦南階に䡨す、御輿に中引き有り、大間たるにより、寝殿にて簀子敷を安ずる、皇后同輿の間摂政以下退下す、次将一人昇殿し御簾を垂る、格子を下ろさずと云々、漸く数刻に及ぶの間、主上御□□中引きの内に入り御ふ、此の間御輿の中より薫爐落つ、下官下馬し之を取り、随身に持たせしむ、やや久しくして上皇大炊門において御見物す、次いで本路を経て宮に還る、御寝により、先ず格子を下ろす、宰相中将剣璽を取り内侍に授く、御輿退きて後下官忩ぎ列に加うる、次いで名謁、従三位経忠参議の上に加へ立つ、相語りて云く、上皇の御装束を給りて着用す、有文の帯帯すと云々、
    裏書に云く、
     後に聞く、上皇御座の跡に紫檀地兀子を立てる、下敷は赤地の錦、件らの物大嘗会悠紀の所料なり、兼ねて借り渡す所なり、皇后理髪し末額を着し御ふ、主上御拝に白袷を用いらる、新院奉拝の時、(欠字)、新院本院の楽の間の御座皆御拝の時に用いらる、(欠字)、採桑老、康和の比多資忠山村吉貞のもとに参らんが為、後北の京の舞人此の曲知る者無し、しかるを天王寺の舞所公定此の曲を伝習するの由其の聞こえ有り、去る十二月比京都に召し上せ伝習せしむるなり、舊きを尋ねて新しきを知る、聖代の恒典なり、娑婆を進退し又其の體を得、装束黄の直衣なり、但し竹葉を挿さざるは如何、各故事を存せず、黄袍頗る劣なり、

  • 『長秋記』天永四年八月九日 語釈

    • 毛付:馬や犬などの毛色を書き留めること。また、その文書、または役目。
  • 『長秋記』天永四年八月九日 現代語訳

    ●現代語訳
    九日 雨降っている時に参内した。御馬御覧が有る事。前もって呼び寄せていてた、小板敷で、行事蔵人を招いて、左右の毛付けづけを取り寄せて開き見たところ、檀に入れられた北飼の御馬三疋が入ってなかった。そのため書き入れさせた。此の間に天皇がお出でになった。召集があって参進することはいつものようであった。左に七疋、右に五疋であった。御覧が終わって退出する間、御簾の中から尻付を頭辨に押し出して返しなさった。毛付を加えて、小板敷でおっしゃったように書き終わった。よくよく今日のことを考えると、毛付が御所から下しなさった事は、ここ数年見ないことで、不審なことである。この後朝夕の膳が供え、用事が終わって退出した。雨が降っていた。

  • 『長秋記』天永四年八月九日 読み下し文

    九日 雨の間参内す、御馬御覧の事有り、召しの以前、小板敷に於いて、 行事蔵人を招く、左右毛付を請いて開き見る處、壇の北に加入せらる飼い御馬三疋入らず、仍て書き入らしむ、此の間出御す、召し有りて参進すること例の如し、左七疋、右五疋、御覧了りて退出するの間、御簾の中より尻付を頭辨に押し出し之を返し給う、毛付を加え、小板敷に於いて仰せの如く書き了んぬ、つらつら事の心を案ずるに、毛付御所より下し給う事、年来見えざる事なり、不審なり、此の後朝夕膳を供う、事了りて退出す、雨下る、

  • 『長秋記』元永二年十二月二十四日条 語釈

    ・天子日を以て月に易ふる文……:『貞観政要』論悔過にほぼ同様の文章が見られる。論悔過においては、実際には服喪の期間が三年である≒三回忌までの法要が必要であるのに、「日を以て月に」読み替える事で三年を三十六日に短縮し、一ヶ月強で法要を終えてしまう事を、「礼典に乖く」ものだとして太宗が嘆いている。ここにおいても、結果的には三ヶ月(これは親子の服喪期間に相当するが、白河院と輔仁親王は兄弟であり、時の鳥羽天皇とは親戚のため、実際には四十九日が適切であろう)喪に服すはずだが、「日を以て月に」読み替える事で三日になっていると考えられる。
    ・鰭袖:袍、直衣、直垂などで、袖を広くするために、袖の端にさらに半幅付けた袖。
    ・荷前使:のさきのつかひ。十二月、諸国からの貢物の初物を九月に皇大神宮、十二月に帝陵と外戚の墓に奉る事。十二月の荷前は、指定された陵墓にこの荷前使が派遣される。いつごろから始められたかは未詳。九月の皇大神宮荷前と本来は一連のものであったと思われるが、平安時代にはもっぱら、十二月のそれが「荷前」の語の通例となっている。

  • 『長秋記』元永二年十二月二十四日条 現代語訳

    ●現代語訳
    二十四日 伊予守が語って言うには、「今月廿二日明法博士が(白河院に)服喪の期間を問われて(宮/輔仁親王の服喪)、帝が日を以て月に読み替える先例を文で勘申した。院庁の仰せによって服喪の道具が用意された。土高坏の上に折櫃を置いた。折櫃の中には麻布の御帯が一筋と(上巻紙、)鈍色の御衣(布鰭袖は無し、)が入っていた。上皇が御装束を纏われた(ただし布衣と御衣を着用されなかった)。上北面方に屏風を立て、前に小筵を半帖ばかり敷いた(以上掃部寮が用意させた)。その前に例の高坏を置いた。光平の勘文に応じて丁方を向いて着御された。今日は二十二日と同様に着御した。やがて脱御され、例の御装束を着て御座に着された。光平が御装束を賜って御前に置いた。続いて御贖物を供した(長実陪膳、家保役(供)、束帯を着ていた、)。御禊が終わって光平が服喪の御衣を伴い、河原に出て切り流したという。今日荷前使があったとの事だ。

  • 『長秋記』元永二年十二月二十四日条 読み下し

    ●読み下し
    廿四日 伊予守語りて云く、去る廿二日明法博士に御服日数を問はる(宮の御服なり、)。
    天子、日を以て月に易ふる文を勘申す。廳の仰せに依り御服具を儲く。
    土高坏の上に折櫃を居す。その中麻布御帯一筋、(上巻紙、)鈍色御衣(布鰭袖無し、)、
    上皇御装束を着す(但し布衣・御衣を着せしめず、)。上北面方に御屏風を立て、
    その前に小筵半帖等を敷く(已上掃部寮召す、)。其の前に件の高坏を居す。
    光平の勘文に任せ丁方に向き着御す。今日また廿二日の如く着御す。乃ち脱御す。
    例の御装束を着し件の御座に御す。光平御装束を給り前に置く。次ひで御贖物を供す
    (長実陪膳、家保役(供)、束帯を被る、)。御禊了りて光平服・御衣を相具し、
    河原に出で切り流すと云々、今日荷前使有りと云々、

  • 『長秋記』元永二年十二月八日条  語釈

    ・露顕:古代の聟執婚における結婚の披露宴。古くは男が女のもとに通いだして第三夜に行うのが普通であったが、院政期ごろから第一夜に行うのが一般的になった。男が連続して三夜女のもとに通うと、結婚が成立したものとして男女が三日餠を共に食して祝い、男は女の家の聟になったことを公表し、女の両親や家族が男に対面して聟として扱うことを承認し、親族など縁故の人を招いて披露の宴を設ける。
    ・吉上:六衛府の下役で、宮門・禁中を守る役の者。
    ・左衛門尉国能:藤原国能。詳細は不明だが@石山寺縁起に天治の比参議真夏卿の後胤に正五位下式部少輔藤原国能といふ人あり。」という記述があるほか、詩序集に記載あり。
    ・星歌:神楽歌の曲名。宮廷御神楽の「神楽次第」の歌は、(一)庭燎、(二)採物、(三)前張、(四)星・雑歌から成る。このうち、夜明けの神楽が「星(歌)」である。庭火も字が異なるだけでこの歌の一つと考えられる。
    ・月入:月の入りの頃の時刻。この元永二年十二月八日は、新暦では翌年一月十日であり、その日の「月入」の時刻は午後五時四十分である。
    ・御仏名:懺悔して仏名を唱え滅罪のためにする仏事である。三千仏名を礼拝するから仏名懺悔ともいう。わが国では毎年十二月中に一定の日を期して仏名を礼拝する行事を仏名会という。中国では古く東晋の時代から行われ、わが国では宝亀五年(七七四)十二月に方広悔過を宮中に行なったのが初めで、淳和天皇の弘仁十四年(八二三)十二月、大僧都長恵・勤操・空海らを請し清涼殿にて大通方広の法を行じ終夜に至った。その後年中行事として営まれたが建久のころに毎年十二月十九日より同二十五日に至る間のただ一日だけと定められた。その後建武年中(一三三四―三八)には一夜のみ行われたのが、永和のころより宮中では行われなくなった。世にこの仏名を唱礼して懺悔滅罪を祈る行事をお仏名会と呼んで平安時代は諸寺に行われ、薬師寺・東寺・四天王寺などでは過現未の三千仏名が歳暮にかけて行われたものである。これは『賢劫仏名経』『観薬王薬上二菩薩経』などの所説に基づいたものである。
    ・藤原宗輔:平安時代後期の公卿。権大納言藤原宗俊の三男。母は左大臣源俊房の女。没年から逆算すると、承暦元年(一〇七七)の誕生となる。寛治元年従五位下に叙され、近衛少将・同中将を経て蔵人頭に補され、保安三年参議に昇った。以後諸官を歴任して、保元元年右大臣に進み、ついに従一位太政大臣に至ったが、永暦元年上表して官を辞し、応保二年(一一六二)正月二十七日出家、同三十日、八十六歳の天寿を全うした。蜂を飼って愛玩したので、蜂飼大臣とあだ名された(『十訓抄』)。
    ・人長:にんじょう。神楽執行の宰領役。「ひとのおさ」ともいう。宮廷の御神楽では近衛将監、諸社の神楽では神祇官が勤める。

  • 『長秋記』元永二年十二月八日条 現代語訳

    ●現代語訳
    八日(内侍所御神楽)、権僧正の檀所に向かった。中宮権亮實能がやってきて言う事には、今夜は召人なので、沐浴の為に来たとの事だ。私もまた召人だったので、これを聞いて共に沐浴した。その後伊予守(藤原長実)の宿所に向かって、細弓・鞆絃袋を送った。(伊予守が)聟執の間にこれらを入れましょう、と言った。今夜、甲斐守(藤長輔)が参河守有賢朝臣の家に立ち寄った。今夜露顕であるという。参内して蔵人らに、「大将より示された所である。右近の陣の吉上等が訴えを申し上げている。近日、蔵人が吉上を呼び宿所を守護させている。また昼夜問わず私用に駆使している。まるで乱罸の様に陪膳にも催促させているという。これは誰がやっている事なのか。先例はあるが、今回の事に沿うものではない。沿う先例が無いならば早く停止されなければなない。一旦お伝え申し上げて(使役した事を)認めなければ、その時(院に)奏聞するのが良いだろう」と問い伝えた。蔵人盛行が言う事には、「この事は左衛門尉国能がやった事です。主上は全てお聞きになっています。今となってはこのような事には出仕しないでしょう」、との事だった。暫くして退出した。私は御剣に控えた。宗輔朝臣が御裾を取り、南殿及び軒廊春興宜陽殿代等を経て、内侍所に入御した(長橋を構え筵道を敷いていた、)。最初に屏風の中で御拝を行った。次いで南面御座に着御された。御拝の間南面御座に御剣を置いて退出した。頭中将が勅命を伝えて言う事には、「庭火本歌に奉仕せよ」、との事だった。形式通りに奉仕する事を申し上げた。伊通朝臣が和琴、成通朝臣が末歌、殿上人が着座した(西上北面、)召人が着座した。殿上人は六人伊通朝臣、忠宗朝臣、実能朝臣、成通朝臣、季成、そして私であった。地下元祐、清仲、忠光、定元、時貞、業兼が着座した(西本、東末、)。人長は末方に控えていた(列座である)。近衛府召人は暫く着座しなかった。この座は四列であった(本方・末方それぞれ二列か)。一献(宗輔、経忠)、二献(顕重、貞信)、三献(某)があった。続いて庭火があった。(本歌は私、末歌は成通、琴は伊通、笛は清仲、篳篥は忠光だった)続けて近衛召人が着座した。本(歌)は近方(拍子、)秦兼信と兼行、末歌は時光(拍子、)清原遠兼、秦公方、物を取り終えて勧盃した。才男を呼び、陪従が散楽を行った。元輔・清仲は㝡であった。事が終わって宗輔朝臣が星歌に奉仕するよう仰せになった。なのでそれ(星歌)を詠唱した。今夜人長が命によって本方に着座するはずだったが、風気がひどいために末方に座した。伊通朝臣は神楽の間に兼業を呼んで座上に座し、琴を弾かなかった。琴が終わり退出した。月入の頃に帰宅した。

  • 『長秋記』元永二年十二月八日条 読み下し

    ●読み下し
    八日(内侍所御神楽)、権僧正檀所に向かふ。中宮権亮實能参会して云く、今夜召人たるに依り、沐浴の為来る所なり。下官又召人なり。この旨を聞き、相共に沐浴す。次ひで伊予守の宿所に向かひ、細弓・鞆絃袋を送る。聟執の間件の物等入れるべしと云々。
    今夜、甲斐守参河守有賢朝臣の家を過る。今夜露顕と云々。参内し蔵人等に問ひて云く、大将の御許より示される所なり。右近陣・吉上等訴え申す事有り。近日蔵人吉上を召し宿所を守護せしむ。又昼夜私便を行はしむ。陪膳を催さしむ、羇時乱罰に及ぶが如しと云々。件の事誰人為す所か。先例有るもこの限りに非ず。例に非ずんば早停止せらるべきなり。一旦觸れ申し承引無くんば、その時奏聞すべし、てへり。蔵人盛行に云く、件の事左衛門尉国能為す所なり。主上皆聞し食す所なり。今に於いては然る如くの事に候ぜざるか。やや久しくして出で行く。下官御剣に候ず。宗輔朝臣御裾を取り、南殿及び軒廊春興宜陽殿代等を経て、内侍所に入御す(長橋を構え筵道を敷く、)。先づ屏風中に於ひて御拝、次ひで南面御座に着御す。御拝の間南面御座に御剣を置き退下す。頭中将勅を伝えて云く、庭火本歌に奉仕すべし、てへり。形の如く奉仕すべきの状を申す。伊通朝臣和琴、成通朝臣末歌、殿上人着座す(西上北面、)召人着座す。殿上人は六人、伊通朝臣、忠宗朝臣、実能朝臣、成通朝臣、季成、下官等なり。地下元祐、清仲、忠光、定元、時貞、業兼着座す(西本、東末、)人長末方に在り。(列座、)近衛召人暫く着座せず。件の座四行なり(本末各二行歟、)。一献(宗輔、経忠、)、二献(顕重、貞信、)、三献(某、)、次ひで庭火、(本歌下官、末歌成通、琴伊通、笛清仲、篳篥忠光、)次ひで近衛召人着座す。本近方(拍子、)、秦兼信、同じく兼行、末時光(拍子、)、清原遠兼、秦公方、物取り了り勧盃す。才男を召し、陪従散楽す。元輔清仲㝡なり。事了り宗輔朝臣星歌に奉仕すべきの由仰す。仍って唱え了んぬ。今夜人長命に依り本方に着す。而るに風気甚だしきに依り末方に居す。伊通朝臣神楽の間業兼を召し座上に居し琴を弾かず。琴了り退御す。月入に帰家す。